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  • 第97番 鹿児島城
  • 100名城スタンプ設置場所; 鹿児島県歴史資料センター黎明館

    堀の北東隅の部分がスタンプのデザイン。鬼門にあたる北東隅は他にも例があるが角をわざと欠いた状態になっている。

☆ 「薩摩は人をもって城となす」と言うそうだけれど・・・

第38話 鹿児島城

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鶴丸城(鹿児島城)

はじめにことわるが、加賀前田家に次ぐ全国第二位の77万石という石高を有した名門島津家の居城にしてはあまりにも小さすぎる。

やはり関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍に与していたからだろう。

ただ、西軍諸将の石田三成や小西行長、宇喜多秀家などがことごとく取りつぶされたのに対して、本領を安堵されたのは不思議に思えるかもしれない。あの毛利や上杉でさえ、領地を大幅に縮小され、小大名となりさがってしまったのだから。

しかし、それには島津が西軍につかざるを得なくなった事情もあるのだろう。

少し詳しければ、もともと島津は東軍につくつもりであったことは周知の事。そのため、関ヶ原の戦いの時も、戦いに消極的にしか参加しなかったのである。

ただ、このことは探訪記とは直接関係ないので詳細は控えておく。しかしながら、この鹿児島城が造られたのが関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)ということを考えれば、島津と徳川の微妙な関係がこのお城の造りと大変興味深い因果を感じさせるのは間違いない。

 

[西南戦争の傷跡 ]

鹿児島城の名称は不慣れ。なので、通称の「鶴丸城」を用いることとする。

鶴丸城が造られた時期は、島津にとってとても微妙な時期であった。なぜなら、関ヶ原敗戦の翌年であるこの時期は、今や事実上天下を治めている徳川により改易すら危ぶまれていたはずだからである。鶴丸城は、そういった事情の中でつくられたので、城郭そのものは非常に簡素である。堀はわずかにしかつくられていない。全国第二位の石高を誇る大名の居城としてはなんとも簡素である。

その一方で、遠慮するだけではすまない。万が一徳川と事を構えた時の備えもしておかなければならなかったはず。しかし、そのあたりはさすが島津維新義弘。ちゃんと「城山」という後詰の山城が背後に備えられている。ちなみにこの城山は明治10年(1877)の西南戦争の際に、西郷隆盛らが最後の抵抗を繰り広げたところである。

 

わずかに造られた堀に往時の遺構でもある石橋がかかっており、そこを渡って旧本丸へとアクセスする。

この先には、楼門があったらしく、古写真も残っている。見る限りでは、立派な櫓門である。これが鶴丸城のハイライトといってよいのかもしれない。

桝形になっている本丸入口付近には多数の弾痕が確認できる。大きめのものから小さいものまで、見ての通り「無数」にある。これは、この付近の石垣のそこかしこに残されているのだが、それらは、明治10年(1877)の西南戦争の時のものである。特に、西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡付近の石垣が攻撃を激しく受けたものとみられ、より多数の弾痕が確認できる。

[ 黎明館(本丸) ]

本丸へ

大手門をくぐるとすぐに本丸である。ここはお城というより、居館である。「薩摩は人をもって城となす」とは薩摩藩に伝わる言葉であるが、他藩の立派な城を見て嫉妬しなかったのだろうか。それほど幕府を恐れていたのか・・・。

とにかく何だか武田信玄の「人は城、人は石垣・・・」を想起させられる。要害山を後詰の城とする信玄の居館、躑躅ヶ崎館と同様、城山を後詰としているところもよく似ている。

本丸には現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館という建物が建っている。本丸といえば天守だが、鶴丸城に限って言えば、一貫して造られることはついになかった。

 

御隅櫓跡・麒麟の間

この本丸にあった建物といえば、明治期の古写真にも写っている御隅櫓をはじめとしたいくつかの建物と、本丸御殿の程度だったそうである。

麒麟の間とは、本丸御殿にあった部屋のひとつで、礎石(柱)があったところに躑躅が植えられており、その様子と規模がわかるようになっていた。このような保存形態は他のところでもよく見られる手法である。

[ 城山周辺 ]

堀と布積み石垣(全国的にも珍しい布積みの石垣。石垣好きにはたまらない積み方のひとつである。このようなところでお目にかかれるのは嬉しい限りである)

もう一度本丸を出て周囲を見て回ろう。びっしりとハスの葉っぱで覆われた堀の石垣をよく見ると布積みになっている。つまり、切り石で隙間なく積まれていると同時に、すべての石が長方形に近い形をしている。これは全国的にも珍しい石垣といえるだろう。全国のお城を長年見て回るうちに、このようなところにも気がつくようになってきた。


そして、堀の周囲をぐるっと回ると、城山方面に登っていく道を発見。

鶴丸城の裏手にあるこの城山は、いわゆる後詰の城としての役割があったことは想像に難くない。しかし、往時は山そのものが神聖視されて、入口は閉ざされていたということである。むしろ、機密を保持するためとか、城の背後を取られないようにするためとか、いろんな理由があるような気がしないでもない。

とにかく、現在では、城山の頂上に容易に行くことができる。

当日は激しい夕立に見舞われてしまったが、あきらめずに自転車で登って行くことにした。途中には、西南戦争の時の西郷隆盛が隠れた洞窟跡や、自刃の地などを見ることができる。感慨深い。

ちなみにこの自刃の地の向かいには、JRの線路とトンネルの入口が見られる。このトンネルの入り口には扁額が掲げられており、西郷隆盛が愛した言葉「敬天愛人」と揮毫されていた・・・。

あまり気がつかないが、注目すべきだろう。一見の観光客はおろか、それ以外の人もこの扁額の存在とその意味をどれだけ知っていることだろうか。

城山頂上からの桜島

( 2010年(平成22年)8月10日 訪問 )

 

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address 〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町7−2
交通

JR鹿児島中央駅より市電乗換

鹿児島市電2系統、朝日通電停下車

リンク 黎明館
別名 鶴丸城
城郭構造

平山城

後詰の城としての城山を含めると「平山城」となる、平地部には、本丸と二の丸が隣り合って存在しているのみ。

天守 なし
築城主 島津忠恒(家久)
築城年 1602年(慶長7年)
主な改修者  
主な城主 島津氏
文化財指定等 日本100名城(97番)
鹿児島県史跡

 

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