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  • 第73番 広島城
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    日本100名城スタンプ設置場所; 天守閣内売店 9:00~18:00(入場17:30)

    ※12月1日から2月末日までの平日は9:00~17:00

    内堀の西、祇園新道沿いの基町小学校前付近から天守を狙ったアングル。再建とはいえ、外観は復元されている。

☆☆☆ 天守は原爆によって倒壊したが、戦後広島のシンボルとして再建

第67話 広島城

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広島城

中国地方の覇者、最盛期には合計12ヶ国を領有したといわれる大大名、毛利氏の居城。さすがの天守をもっており、二つの三重の櫓を連結したいわゆる連結式天守だったといわれている。

近年の広島の発展を考えると、この広島城の威容は市街地化の中で埋もれてしまっており、存在感はうすまってきつつあるように感じるが、そもそも広島城が立つ前は、この地は「広島」という名称すら使われておらず、太田川のデルタ地帯の中央、砂地のとてもお城の建設などできないような場所だった。

創建した毛利輝元は、それまでの本拠地だった安芸吉田郡山ではなく、瀬戸内の水運や今後の発展を見通して、この地に本拠地を移すことにしたのである。その後の広島の発展を見ると、輝元の決断が成功だったことがよく分かる。

しかし、その輝元自身は、完成の翌年におこった関ヶ原の戦いにおいて、西軍に与したため、完成したばかりの広島城を後にして、萩を根拠地とした防長二ヶ国の大名となってしまった。

広島は、自身が8年間住んでいたところなので、その間も含め、何度も広島城の訪問を行っている。いわばなじみのあるお城の一つである。 今回の訪問は100名城スタンプが目当てだったが、何度やってきても魅力を感じる名城といってよいだろう。

典型的な平城のお城は大概市街地の中心に鎮座しており、アクセスも良好である。その都市が城下町だったことが最も端的に理解できる例だろう。広島市が、その好例である。

縄張は輪郭式に分類されるらしいが、二の丸と本丸の関係だけをみれば梯郭式である。しかし、二の丸は本丸と比べてもその規模は小さく、本丸の馬出しのような関係にも見える。

 

[ 内堀を一周、有名政治家の銅像も発見 ]

二の丸にある隅櫓が近年再建された太鼓櫓である。

近年の城郭建築の復元は規制が厳しく、往時に忠実でないとなかなか許可が下りないらしいが、この太鼓櫓は残存した諸々の資料の検証から忠実に再現された櫓のひとつなのだろう。

そもそも、広島城は天守をはじめとする主だった建築は太平洋戦争末期の原爆によって倒壊するまでは現存していたという。天守は国宝に指定されていたとのことなので、なんとも惜しまれる。

二の丸へはこれも復元された内堀にかかる橋を渡ることになる。

渡った先にある櫓門も立派である。復元された櫓門(表御門)は創建当時から存在していた建物の一つで、約350年間もその風雪に耐え続けてきたが、先に紹介した通り、原爆によって破壊焼失してしまった。

 


■ここから二の丸を経由して本丸へと行きたいところであるが、100名城スタンプのデザインともなっている内堀越しの天守閣を撮影すべく、内堀沿いに少し歩いてみることとする。

内堀の外周を南側から時計回りにあるくとまもなく「瀬尾弘吉先生」なる銅像がある。広島県の大柿町に明治32年に生まれ、その後、政界に入り、衆議院議員、文部大臣、厚生大臣、衆議院議長を歴任した大物であると説明書きにはある。

さらにしばらく進むと天守の威容がはっきりと見えてくる。ちょうど100名城スタンプもこの付近からの天守をデザインとしているようだ。本丸の中からよりも、この市からの天守がその全容を見ることができ、美しさを味わえると思う。

天守を横目に見ながら北側をめぐり、さらに内堀の東側に到達した。この周辺は広島高裁や合同庁舎などが並ぶ官庁街であるが、その一角にはあの池田勇人像がある。「所得倍増」「寛容と忍耐」などの言葉で連想される1960年代を代表する首相のひとりである。

 

[ 二の丸 ]

内堀の外周を時計回りに一周し、いよいよ二の丸を経由してお城へと入る。

 

現在の二の丸。二の丸の南側はこれまた再建された多聞櫓が再建されている。中にも入ることが可能だ。多聞櫓は南側だけでなく、太鼓櫓を越えて北側にも伸びていた。すなわち、二の丸の南と東を取り囲む長大な建築だったということである。また、番所跡や馬屋跡には礎石が示されており、当時その場所に建物があったことが分かるようになっている。

 

[ 本丸下段 〜護国神社・大本営跡〜]

二の丸と本丸は土橋でつながっている。その先は内枡形になっている。おそらく城門があったことだろう。建物が失われているのは非常に惜しい気がする。ちなみに、写真右奥は「被爆樹木マルバヤナギ」とのこと。

本丸はほぼ長方形。南北半分に分けられ、南側は「下段」といい、現在、その西半分は広島護国神社となっている。本丸のアクセスは二箇所でこの二の丸を経由するルートのほかには、東側に抜ける橋しかない。

本丸上段の北西隅には外観を復元された天守閣が鎮座しており、それ以外の部分は建物こそ失われているが、往時には御殿があり、その後、太平洋戦争まで広島大本営の建物があった。もちろん、現在ではそれらの建物は残されていないが、大本営に入る門柱のみ残されていて、現在でも見ることができる。 広島大本営の建物跡地は、市民のピクニック広場と化していた。

天守の脇にあるこの礎石が並べられているスペースは元々あった天守礎石を並べたものである。

 

[ 広島城天守 ]

広島城天守

ちょうど桜の時期と重なっており、天守の威容に彩りを添えていた。これは100名城スタンプと同様の構図。内堀越しに南西側から天守を見た図である。この角度の天守が一番美しい。

 

天守最上階は展望台となっている。ここからは広島の市街地が楽しめる。市の中心部は南側。また、北側には正面に基町高校が見える。いずれにせよ、内堀はかなりの幅がある。

 

[ 悲劇の城主、福島正則 ]

本丸北東付近にも古い石垣が残されている。たの場所にある石垣よりも、古い感じがする。一部は野面積みにも見えるほどである。実は、その一角にはあまり観光客には知られていないが、広島城の歴史を見るにあたって重要な石垣もある。

この人工的に破却されたままになっている石垣は、関ヶ原の戦いの後、広島城に入城した福島正則が没落するきっかけになったとされるものである。

関ヶ原の戦いの後、萩に転封となった毛利氏に代わって、福島正則が広島城主となった。しかし、幕府としては豊臣恩顧の外様大名である福島正則を良くは思ってなかった。

そんな中、広島城の石垣の修築の許可を幕府に申しでた際、なかなか許可をもらえなかったので、正則は痺れを切らして勝手に修築してしまったのである。

幕府は、これで正則を排除する口実を得て、広島49万石を取り上げ、信濃川中島4万5000石に減封させたのである。


正則は勝手に石垣を修築したことによる詮議を受けた際、それならばと自ら再び石垣を破却させたともいわれる。すると今度は「勝手に石垣を壊すな」と咎められたとのこと。あるいは、修築した箇所とは関係のない部分の石垣を壊し、幕府の命令を欺こうとしたともいわれている。

( 2012年(平成24年)4月15日 訪問 )

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address 広島県広島市中区基町21−1
交通

JR広島駅下車

リンク 広島城ホームページ
www.rijo-castle.jp/
別名 鯉城、在間城、当麻城
城郭構造 輪郭式平城
天守 複合連結式望楼型5重5階(1599年・非現存) 外観復元(SRC造・1958年再)
築城主 毛利輝元
築城年 1589年(天正17年)
主な改修者 福島正則
主な城主 毛利氏、福島氏、浅野氏
文化財指定等 日本100名城(73番)
国指定史跡「広島城跡」

 

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