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  • 第14番 水戸城
  • 日本100名城スタンプ設置場所 弘道館窓口

    デザインは2分割。上は旧水戸城薬医門。下は整備されたどこかの土塁です。はじめは弘道館正門かと思いました。

第57話 水戸城

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〜徳川御三家のお城 水戸城〜

(JR水戸駅前の黄門ちゃま御一行)

御三家の一角。尾張や紀伊もそれぞれ立派な城郭を持っていたので、この水戸城もさぞや立派なお城だろうと考えるのは間違い。

それというのも、このお城は城主のいない(名目上はいるが・・・)お城なのです。 江戸幕府の祖、家康公は「将軍家の血縁が途絶えたとき、御三家のうちから後継を選ぶように」と遺したそうですが、いざその事態になって最初に将軍職を得たのは、紀伊の吉宗(8代)でした。それでも、尾張徳川家と違い、江戸幕府最後の将軍となった慶喜公はこの水戸の徳川家の出自となったことを考えると、その名門ぶりは全国屈指と言えるでしょう。

しかし、水戸の徳川家で最も有名な人物を挙げるとしたら、徳川慶喜でもなく、藩祖の頼房でもなく、やはり水戸光圀すなわち「黄門さま」なのだと思います。 JR水戸駅には水戸光圀公と助さん格さんの像があり、この地に降り立った人々を歓迎してくれます。

 


 

〜そして、水戸城散策〜

といっても城郭は見事なまでに市街地に溶け込んでおり、それらしい痕跡を見つけるのはいささか難儀します。それでも、郭をそのまま利用して市街地利用しており、それが学校などの公共施設が多いため、分かりやすくはあります。当時の堀跡に鉄道や道路があるなどその変化や時代の流れを感じることはできそうです。 はじめに藩校の弘道館を目指しました。弘道館にはほかにも正庁や至善堂などの重要文化財の建物が見られます。

 

 

しかし、ここにも東日本大震災の痕跡が・・・「一部破損しており、危険なため当面の間、閉館します。」とのこと。なかなか見所の多い場所だと聞いていたので残念です。

 

スタンプは弘道館の事務所で押印できるはずなので、これはヤバイかな・・・と思いましたが、傍らにスタンプ発見。但し、押印済みの用紙が置いてあり、スタンプ帳にはそれを切り貼りすることになります。

 

 

ちなみにここには「徳川慶喜向学の地」なる碑が建っており、弘道館において武芸に励んだという案内が書かれてあります。

 


 

徳川斉昭公の像もあります。

第九代水戸藩主。藩政の大改革を行い、天保の飢饉を乗り切ったほか、藩校の弘道館を創設した人物。諡号「烈公」。

 


 

弘道館のあるところは三の丸で、そこから本丸を目指します。 水戸城は、連郭式の城郭をしているのでここから一本道で二の丸、本丸と行けるはずです。本丸へと至る道は「水戸城跡通り」といって、弘道館が起点となっています。そこから再建された大手橋を渡ると二の丸になります。

 

この大手橋は、当時は堀をまたぐように架けられていたと考えられますが、現在では下には道路が通っています。このように堀の跡に道路が通っている例はさほど珍しくなく、全国各地で見られます。

 

大手橋に接して二階造りの大手門がかつてありました。明治初年に取り壊されたということですが、案内板には古写真がありました。楼上では太鼓、または鐘があったようです。立派な櫓門形式の門だったことが古写真からは伺えました。

 

 

欄干には「おほてはし」の文字が。

 


 

〜 二の丸 〜

 

 

二の丸は藩主の居館があったとされている場所で、現在は茨城大学付属小、水戸二中、水戸三高の各校の敷地となっています。面影は、一部残されている土塁のみとなっています。

 

 

【水戸藩初代 徳川頼房】 ここには、この二の丸に居館を築いた水戸藩初代藩主である徳川頼房公の像があります。あの家康の子で、二代将軍、徳川秀忠の弟に当たる人です。

 


 

また、光圀公による『大日本史』がここで行われたことを示す『大日本史編纂之地』なる石碑があります。徳川光圀は彰考館において大日本史の編集作業を行いました。もともとは江戸藩邸にあり、元禄11年(1698)にこの地に移されました。大日本史は、光圀の没後200年余の歳月を経た明治39年(1906)に完成しました。

 


 

 

というわけで格さんの像。格さんのモデルは安積澹泊なる人物。光圀の没後は彰考館の総裁として晩年には新井白石や荻生徂徠などの名だたる学者と交流があったそうです。ちなみに劇中の格さんの名は渥美格之進。 しかし、助さんの像は確認できず。助さんにもモデルがあって、名は佐々宗淳といいます。安積澹泊と同じく、光圀の忠臣で大日本史の編纂に携わった彰考館の中心人物の一人。

 


 

また、天守閣を持たなかった水戸城において天守相当の櫓がこの二の丸にはありました。御三階という三重五階建ての櫓で、明治維新の破却も逃れて存続し続けていましたが、惜しくも空襲によって焼失してしまいました。但し、写真は残されています。十分忠実な再建は可能といえるでしょう。 写真を見る限りでは破風がない造り。但し、反対側はまた違った姿をしているのかもしれません。石垣で築かれた櫓台などはないですが、初層の下部には海鼠壁が見られるため、一瞬石垣の上に建っているかのような錯覚を覚えます。

 


 

〜 本丸へ 〜

 

 

二の丸と本丸の間の堀には何と鉄道が!JR水郡線です。しかし、明治期にこのように転用されたとはいえ、往時の面影ははっきりと残っています。

 


 

高い土塁が特徴的。 つまり、この線路をまたぐと本丸です。


 

〜 本丸(水戸第一高校)〜

 

本丸は現在、水戸第一高校があります。

 


 

そして、この高校の入り口近くにあるのが「旧水戸城薬医門」

薬医門とは門の形式のひとつです。 柱は基本的に前後二本ずつ。うち、後方の柱の二本は控え柱で、本注はよりも細いです。しかし、控え柱がある分、本柱は中心線よりも若干前方にずれているのが特徴です。

 


 

立派な土塁。 水戸城は建物こそほとんどが失われていますが、その城郭縄張りはよく残っています。 市街地に溶け込んだ縄張りです。 また、日本三名園のひとつ、「偕楽園」もあります。今回の偕楽園訪問によって、三名園を制覇したわけですが、それぞれに特徴があって面白いです。 偕楽園は他の2つと違って、お城からは若干離れています。おそらく庭園という名目のお城に付随した曲輪のような役割を果たしていたと予想していたので、お城から離れていることが不思議に思えます。

徳川御三家のお城、水戸城は、確かに日本屈指の名城とまでは言えないかもしれません。しかし、水戸黄門や徳川慶喜を輩出した名門。その雰囲気は十分伝わったと思います。

 


〜 ギャラリー 〜

弘道館構内にあった孔子廟。この門も、東日本大震災の影響で崩れています・・・

 

( 2011年(平成23年)8月6日 )

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address 茨城県水戸市三の丸1
交通

JR水戸駅より徒歩

URL  
別名 馬場城 水府城
城郭構造 連郭式平山城
天守 なし
(御三階櫓・独立式層塔型3重5階(1766年再)非現存)
築城主 馬場資幹
築城年 建久年間(1190年 - 1198年)
主な改修者 佐竹義宣、徳川頼房
主な城主 大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏、徳川氏
文化財指定等 日本100名城(14番)
国特別史跡(藩校)、県史跡(水戸城跡(塁及び濠))、県指定文化財(旧水戸城薬医門)

 

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