トップ > テーマ > 日本100名城探訪記 > 上田城

  • 第27番 上田城
  • 日本100名城スタンプ設置場所 上田市立博物館

    スタンプは再建された櫓門と南北の櫓を斜めから俯瞰した角度です。当然のことながらこれと同じアングルで撮影することはできないので、代わりに櫓門を中央に入れて撮影。

☆☆☆ 「真田丸」で話題のお城

第12話 上田城

< 11話 | 13話 >

 

松代が真田信之(信幸)(真田昌幸の嫡子)ゆかりの町とすれば、上田は幸村(信繁)(昌幸の次男、信之の弟)ゆかりの町といってよい。上田駅前には真田幸村の像があった。この像は幸村が青年期を上田で過ごしたということもあり、若い姿をしている。

 徳川の大軍を二度も退けた上田合戦。幸村(信繁)最後の戦いである大坂夏の陣など真田氏の武勇に優れた戦いはなかなか有名である。現在も残るお城の中でもこれほどの大きな合戦を二度も経験し、なおかつ二度とも籠城側が勝利したというお城はあまりないと思う。

 この上田合戦の舞台となった上田城は、一見、石垣も少なく土塁中心だし、本丸の形状もほぼ方形でそれほど堅固には見えない。徳川の大軍を破ったとは到底思えない。もちろん、守備側の知略等も功奏したのであろうが、その秘訣は何だったのか。実際には城下町を含めた町全体が巧妙な縄張りだったらしく、また、実際行ってみると土塁の高さはなかなかのものである。

 ただ、やはり関ヶ原合戦に遅参した徳川秀忠同様、一見「天守閣もない小城」とたかをくくってしまいそうな感じがどうしてもしてしまう。

 

[ 本丸模型 ]

南側から撮影。手前が現在駐車場になっている尼ヶ淵。ほぼ方形をしている本丸の東西に出入り口があるが、東側が現在の上田城の顔になっている東虎口である。「虎口」とはお城(本丸)の表門のことをいうので、上田城は東側に正門があったことが分かる。

 復元模型によると、全部で7つの櫓が確認できる。それぞれ二層櫓で塀や櫓門で連結されている。北東の方角に隅櫓がないのは、北東が風水的に鬼門の方角に当たるためであろう。事実、北東隅は角をつくっていない。このような構造は京都御所の「猿ヶ辻」などにも同様に見られ、歴史的建造物のみならず伝統的な日本家屋などでもしばしば見られるものである。

 

[ 西櫓から本丸へ ]

上田城の駐車場は本丸の南側に面している。この駐車場があった南側はかつては尼ヶ淵という千曲川の支流が流れていたところである。したがって、この上田城の別名を尼ヶ淵城というのである。

駐車場から西櫓を見上げると三段に石垣が積まれているのが分かる。それぞれいつの時代のものかは不明だが、積まれ方がそれぞれ違って興味深い。

本丸虎口は東側にある。東側こ虎口があるのは東側に防御の主軸を置いていたからに違いない。想定はやはり徳川か・・・。しかし、それだけでなく、南側が天然の要害だったことにも関係していると考える。

 

上田城本丸には「真田神社」なる神社がある。上田城を築城した真田氏をはじめ、その後に上田城に入った仙石氏、松平氏の歴代藩主を祀っている。


 

真田神社の裏手にある通称「真田井戸」。この井戸は横穴が掘られていて、その穴ははるか上田城の北方、太郎山まで続いているという伝承がありました。そこで、発掘調査をしたそうですが、結果は残念ながらそのような横穴は見つからなかったとの事です。まぁ、当たり前か・・・。

 

[ 本丸東虎口 ]

ここが上田城の顔として最もふさわしい場所といえるだろう。本丸へは東西にふたつの虎口があったが、そのうちの東側の虎口である。櫓門が中央にあり中は桝形になっている。左右には北櫓と南櫓の二つの櫓が控え、堂々とした造りだ。

 余談だが、この二つの櫓は明治になって一旦民間に払い下げられている。そして、上田市街の北郊、太郎山麓に設置された上田遊廓に移築され、なんと妓楼として使われていた時期があるのだという。真田安房守がそのことを知ったら、どんな思いになるであろうか。

 

「真田石」

この東虎口門脇にあるひときわ大きな石を「真田石」という。これは、築城時に真田昌幸が太郎山から掘り出して名づけたもので、一番目立つ本丸の門の脇に設置されたものとのこと。高さが約2.5m、幅が約3mもある巨石である。

昌幸の子、真田信之が松代に移封になった時、父の形見にとその松代に運ぼうとしたのだが、大勢で運ぼうとしても全く動かず、石自体がこの場所を動くのを拒んでいるかのようだったそう。そこで、信之も諦めてしまったという。以来、現在まで全く変わらず同じ場所にある。

死してもなお、存在感を発揮する築城主、真田昌幸の怨念なのだろうか・・・。


 

「本丸の北東隅」

堀と土塁が立派に残っているが、隅に位置しているにも関わらず、へこんでいるのが分かる。これは北東の方角が鬼門に当たるためわざと角をなくしている、つまり北東を意図的になくしている工夫である。上田城のものはよく分かる形になっているが、このように北東にくぼみを設けることは他のお城などにもよく見られる。面白いところでは、松山城(愛媛県松山市)の北東隅にある櫓は天神櫓といって神社風の造りをしており、これらの例からみてもわかるように、当時の人々がいかに風水を意識していたかがうかがえる証拠となっている。

 

「鉄道跡」

両側に土塁が見られます。つまり、往時は堀だったところに道ができている。この散策路は二の丸堀跡にあり、「けやき並木遊歩道」と名付けられている。

延長は646間(1163m)、昭和3年(1928)から47年(1972)までは上田温電北東線という鉄道があり、電車が走っていたた。そのようなことを思いめぐらせて歩いてみると、なるほど鉄道があった名残をなんとなく感じさせるなかなか風情のある道のように思える。

上田城は歴史の中で様々な姿に変貌し、今また名将、真田昌幸、信繁の父子に脚光が浴びせられたことで、再び全国の注目を集めている稀有なお城だった。

 

( 2009年(平成21年)5月2日 訪問 )

 

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address 長野県上田市二の丸6263−イ
交通

JR北陸新幹線「上田」駅から徒歩約10分

リンク 上田城・上田城跡公園【上田観光コンベンション協会】
別名 尼ヶ淵城
城郭構造 梯郭式平城
天守 不明
築城主 真田昌幸
築城年 天正11年(1583)
主な改修者  
主な城主 真田氏・仙石氏、松平氏
文化財指定等 日本100名城(27番)
国指定史跡
長野県宝(南櫓、北櫓、西櫓)

 

▲top