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  • 第40番 山中城
  • 日本100名城スタンプ設置場所 山中城跡売店内

    デザインは西ノ丸と西櫓の間にある独特の「障子堀」、ほぼ同様の構図で撮影できました。

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第62話 山中城

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〜山中城絵図 〜

全体図を見るととにかく広い。これだけの規模の山城も久しぶりです。散策にも時間がかかることでしょう。「戦国山城探訪コース」なる2時間ルートを主に辿りながらつぶさに訪問します。

 


 

東海道の途中、駿河から箱根に至る途中にある山城で、後北条氏(北条氏)の当主、北条氏康が築城しました。北条氏の本城は箱根を越えた先、小田原にあり、本拠地防備の西の押さえとして非常に重要な位置にあったことがわかります。実際、秀吉による小田原征伐のときに、東進してきた秀吉軍の攻撃をまともに受け、山中城は約17倍の軍勢に包囲され、わずか半日で落城しました。

山中城はその後廃城となっていましたが、近年、三島市が山中城の公園化を企画し、入念な発掘調査の後に復元工事がなされました。 北条氏特有の築城法が見事に反映された城郭は現存の例が少なく、貴重な遺構となっています。

山中城は国道1号線の途中にあり、静岡県側から箱根峠へと上っていく道の途中にあります。また、箱根旧街道沿いにあるため、交通の要所となっていたことが分かります。

 

駐車場の傍らにある茶店。山中城探索の拠点にもなっています。各種パンフレットのほか、100名城スタンプもここで押すことができます。 手作りのスタンプ入れ 営業時間外でも押せるように・・・。盗難もされないように工夫してあります。


 

〜 三の丸堀 〜

三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走る堀。中央の畝を境にして東側は水濠だったとの事ですが、基本的には多くの山城と同様、水濠ではなく空堀となっています。後で分かることですが,山中城は水を非常に大切にしていたことが様々な遺構から垣間見られます。長さは約180m、幅は最大で約30m、深さは約8mだったといいます。

 


〜 田尻の池 〜

山中城をはじめ、山城では水を蓄える施設が城の生命であったことから、この池も貴重なため池の一つであったと考えられています。西側は「馬舎」があったといわれていることから、馬の飲料水にも利用されていたということです。池からあふれた水は三の丸堀に流れていました。

 


〜 元西櫓 〜

二の丸の西端に位置するこの周辺に元西櫓があったということです。秀吉軍の小田原征討に対して、西の丸などが増築されたようで、この先にもさらに西の丸、馬出しなどの曲輪が伸びています。元西櫓下の堀 案内板にもあるように、山中城の堀には石垣が用いられていません。石垣といえば西日本に多いイメージがあり、土塁でつくられたお城は東日本に多い気がします。堀跡の底は平らになっていますが、当時はもっと深かったということです

 


〜 西ノ丸を囲む堀 〜

西ノ丸を囲む堀は特徴的。「障子堀」といいます。空堀の中で攻め手の身動きを封じるためにこのような工夫がされているそうです。このような堀は他にあまり例がなく、山中城の最大の特徴といってよいと思います。表面が芝でコーティングされた姿は、なかなか不思議かつ美しい気さえします。ただ、当時は湧き水がこの堀に溜まるようになっていたらしく、畝を設けた障子掘では、たまった水が隣接する低い側の障子のマスに流れ込む仕組みになっていて、用水地としての役目も果たしていたようです。

 

西の丸は完全に曲輪の周囲を堀が囲っていますが、この堀が特徴的。山中城の特徴を最もよく表しているのではないかと考えます。堀が畝で区切られており、堀の中に入った攻め手が機動の自由を奪われる仕組みになっているのです。堀の底から畝までは約2mあり、さらに曲輪の中へ侵入しようとすれば、9m近くもよじ登らなければならないようになっていました。現在は、以降の保存のために芝生に覆われていますが、当時は滑りやすいローム層が露出しており、よじ登るには困難だったことと考えます。

 

 


西ノ丸(西の丸)

秀吉が小田原征討をする際に増設された曲輪。山中城の西側の守りの要でした。周囲は障子掘で囲まれ、曲輪の周囲は高い土塁で阻まれています。当時はローム層が露出していたそうで、滑りやすかったそうです。さらに、外側の傾斜を急にして、曲輪側は傾斜をゆるやかにするなど守りやすさの工夫もされています。

 

西ノ丸の西端には物見台があったとのことで、その場所が西の丸でも最も高くなっています。しかし、さらにその外側には「角馬出」があり、西櫓と呼ばれていました。

 


 

西櫓

西ノ丸からの西櫓

櫓といいますが、実際は角馬出の形状をした曲輪。山中城の西を防備する際の最前線となっていたところです。

余談ですが、この「馬出」なる曲輪はお城を見学する際に注意して見てみたいところです。

ほぼ全国のお城に存在するのですが、特に東日本のお城には特徴的な馬出をもったお城が多いような気がします。発展的にみた考えだとは思いますが、馬出で特徴的なのは三日月堀などと併用した甲斐の武田氏のお城などを連想します。武田氏や北条氏をはじめとした東日本の大名のお城にとって馬出なる曲輪は不可欠なものだったのかもしれません。大阪の陣で活躍したあの真田幸村が作ったとされる「真田丸」も馬出のような曲輪でした。そして、真田氏は元々甲斐武田氏の家臣筋にあたるのです。

 


〜 溜池と元西櫓 〜

西の丸から本丸や北の丸がある区画へと移動する途中にありました。西の丸の堀からの自然傾斜による排水や、元西櫓の排水もすべてここに溜められる仕組みになっていました。やはり山城は水が生命線です。貯水施設は大きな関心事だったに違いありません。深さは4m以上あったそうです。

 


帯曲輪〜北ノ丸

西の丸から帯曲輪を経由して北ノ丸へ。途中の道はこのように木立の中になります。整備されているとはいえ、数百年の時の流れを感じさせられる場所の一つです。

 

北ノ丸へ到達。見取り図によると人工的な方形をしています。本丸とは橋でつながれていて、復元されていました。北ノ丸にも堀跡のくぼみが確認されましたが、築城時からはかなりの年月が経過しているので、そのときからは2mほど浅くなっているそうです。北ノ丸跡の標高は583mもあり、天守櫓についで二番目に高い位置にある曲輪になります。このように整えられた形をしているのは、堀を掘った土を聖地に利用しているためと考えられています。

 


〜 架橋 〜

本丸と北の丸の間にかけられていたと考えられています。このように復元されています。木製の橋は、いざというときはわざと橋を落として攻め手側の侵入を防ぐ利点があります。

 


〜 本丸 〜

本丸にある天守櫓跡。最も耕地に位置するとのことですが、上に登ってみると建物等の痕跡は見つからず。おそらくは物見台のような建物が建っていたことだと思います。もちろん、近世以降にみられるような立派な天守閣が建っていたとは考えにくいですが、天守台そのものはほぼ方形に整えられ、一辺約7.5mに統一されています。

 

本丸上段

 

本丸中段から下段を見る

天守台以外の部分は南に行くにつれていくつかの段になっています。本丸跡とよばれるのはおそらく三段目までありそうですが、三段め(一番下段)は兵糧庫あるいは弾薬庫などの貯蔵するための建物があったということです。

復元建物と礎石跡

 


諏訪・駒形神社

また、本丸にはその守護神として建御名方命(たけみなかたのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)が祀られている「諏訪・駒形神社」という神社があります。

神社には、樹齢500〜600年を数えるという大カシの木があります。天正18年(1590)の山中城合戦の時にはすでに生育していました。落城を知る巨木といえます。根回り9.6m、高さ25m。静岡県の指定天然記念物。

 


 

本丸堀と本丸西橋

 

本丸と二の丸の間にも畝が見られます。もはや山中城の特有といってよいでしょう。この堀も埋もれていますが、往時はもっと深かったことでしょう。案内板によると、堀底から本丸土塁までは9mもあったということです。この周辺の堀は、薬研堀(V字型の堀)でその南側には箱堀もあります。

 


〜 本丸西橋を渡って二の丸へ 〜

二の丸の別名は北条丸。斜めに傾斜していました。芝生で覆われている曲輪跡は、当時の様子を窺い知るのに役立つ。公園整備されていれば歩きやすくもあります。

 

そして、二の丸の先が二の丸虎口。城の中枢部分からこの二の丸虎口にかけられた架け橋をわたって箱井戸、そして三の丸方面へ。

 

睡蓮が埋め尽くしている箱井戸の跡。

 


〜 宗閑寺 〜

山中城の中枢部分をぐるっと回って再び国道1号線に近い山中公民館付近に出てきました。

公民館脇にある宗閑寺なるお寺。

宗閑寺全景

 

ここに隣接してある宗閑寺には山中城の落城の際に、亡くなったと考えられる武将たちの石碑が並んでいました。城主、松田右兵衛太夫、群馬県にある箕輪城主、多米出羽守平長定、攻めて側の豊臣軍先鋒、一柳伊豆守直末らの石碑があります。

 


〜出丸へ向かうため、国道1号線を横断〜

国道1号線を横切って出丸へ。いつの間にか箱根旧街道を歩いていました。

東海道箱根旧街道と国道1号線

山中城の中枢部分の散策は終わり、さらに国道1号線をはさんで反対側の岱崎出丸へ。こちらは案内板によると「戦国山城探訪コース」なる名称で紹介されている部分ですが、旧東海道の石畳などを見ることができるエリアで、見どころはそれなりに多いと思います。

 

山中城の中を通る箱根旧街道

東海道の小田原宿と三島宿を結ぶ箱根八里の区間。ローム層の土壌は大変滑りやすいため、はじめに竹敷かれ、そしてその後で石畳が敷かれました。箱根八里。いつか歩いてみたい道の一つです。

 


〜 出丸 〜

広い曲輪。出丸はいくつかの曲輪をまとめた名称。実際は歩くとその広さにとても驚きます。

出丸は秀吉軍の小田原征討の際に突貫工事で作られたようで、発掘調査によって未完成のまま戦闘に突入したことが分かっています。戦闘が起こったのは天正18年3月のことで、全国統一をめざす圧倒的大軍の前に、一日と持たずに落城しました。

 

近くて遠い山並み。稜線まではっきりと見えていつまでも眺めていたい気持ちにさせられます。

 

御馬場曲輪

出丸と呼ばれている一連の曲輪の中で、最も手前(国道側)にあるエリア。御馬場曲輪の先、出丸の突端に向かいます。この先が、岱崎出丸、すり鉢曲輪となります。

ここにも堀の跡があります。この堀は出丸を分断する形で掘られていました。いわゆる「堀切」のような機能を想定したものだと思います。

また、出丸の縁は結構な崖になっていて防御力は高そうに感じます。写真右の崖下には東海道があります。堀は、このように箱根旧街道にほぼ並行して伸びているので、ひょっとしたら東海道を進軍してくる敵を想定した縄張りになっているのかもしれません。

 

 

岱崎出丸

 

「一の堀」出丸からのぞくとかなり深いです。この堀を越えて出丸へと侵入するのは至難のような気がします。ここにも多くの畝が堀の中に存在していました。この堀は出丸を取り囲むようになっているわけではなく、出丸の先まで直線的に伸びていたようです。

 

また、このように未完成の部分なども確認できます。未完成のまま決戦となり、落城してしまった名残です。特に、この出丸に関しては、このような未完成と思われる堀や盛り土などが残されています。

 

 

すり鉢曲輪

出丸の先端にある曲輪は「すり鉢曲輪」と呼んでいます。中央部分がへこんでいて、曲輪の縁に行くにつれて立ち上がっている独特の形状から名づけられています。

 

すり鉢曲輪見張り台

ここが出丸の突端になります。この先から攻め寄せてきた敵を迎え撃つ最前線となった場所だと思います。現在でもその名残が感じられ、山中城の落城の様子が伝わってくる気がします。

 


 

畝堀、障子堀など見どころたくさんの山城。

後北条氏の特徴的な縄張や普請がよくわかります。敷地も広く、旧態を残しながらの復元、保存整備は他の山城の観光保存において、良いモデルとなっていると感じました。

日本100名城に相応しい山城でよかったです。

この日は山中城の散策ののち、箱根へ。箱根の関所や芦ノ湖を見学したあと、この夏最後の100名城探訪地、八王子城へと向かいました。

 

( 2011年(平成23年)8月9日 )

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address 静岡県三島市山中新田字下ノ沢ほか
交通 JR・伊豆箱根鉄道三島駅から元箱根方面行き東海バス(約30分)
リンク 三島市観光協会|山中城跡公園
別名 なし
城郭構造 山城
天守 なし
築城主 北条氏康
築城年 永禄年間(1558-1570)
主な改修者 北条氏政
主な城主 松田氏
文化財指定等 日本100名城(40番)
国指定史跡
箱根十城

 

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