第64話 丸亀城
丸亀城
標高66mの亀山に築かれたお城。山全体が石垣に覆われており、さながら甲羅のよう。このような見事な石垣の名城は全国屈指であろう。枚挙するならば熊本城、津山城など全国有数の石垣の名城に比肩する、いやそれ以上の迫力をもつ石垣の名城のように思う。
頂上にあるのは小ぶりの天守。現存十二天守の中で最小の部類に入る。重要文化財。
さらに縄張にも注目!渦郭式と呼ばれる部類で、全国的にはあまり類を見ない。しかしながら、江戸城や姫路城といった日本を代表する名城はこの珍しい縄張を採用している。ちなみに、防御性能的には若干劣ると聞いたことがある。
[ 本四連絡橋を渡り、丸亀城へ ]
瀬戸大橋〜うどん県上陸
本州から瀬戸大橋をわたって四国へ。本州と四国を結ぶルートは全部で3つあるが、この瀬戸大橋が最も先に開通している。余談であるが、この瀬戸大橋のみが鉄道との併用になっていて、一階部分を鉄道、二階部分を自動車が通行できるようになっている。このような二階建ての構造は、本州と四国の中間に位置している島である与島に設けられたサービスエリアからよく確認することができる。
四国へ上陸すれば丸亀城はすぐである。周辺の幹線道路沿いには、さすがにうどん店が多い。この周辺は讃岐うどんのメッカである。うどん県と称するだけのことはある。
丸亀城地図
丸亀城は標高66mの亀山を利用した平山城である。建物はほとんど残っていないが、麓から見上げると山全体を石垣で覆った圧巻の姿に、小さいながら江戸時代に造られた現存天守が鎮座している。天守そのものはさほど感動を覚えはしないが、石垣の積み方は圧巻である。 本丸へ向かうには亀山を登っていくことになるが、縄張りは渦郭式というめずらしい形式で、これは江戸城や姫路城などごくわずかのお城にしか採用されていない形式である。要するに渦のようにぐるぐると回りながら辿っていけば本丸へと到達するという縄張りである。堅固なイメージがあるが、ある研究によると、防御力は低めといわれている。
[ 丸亀城大手門付近(重文建築群) ]
丸亀城大手門
まずは内堀の先にある大手二の門から全体を見る。 正面に天守の威容が見られ、圧巻の石垣が立ちはだかる。四つ目結の家紋がなびいているが、これは近江源氏の流れを汲む佐々木氏の一族に見られる紋様で、丸亀城主だった山崎氏や京極氏が家紋として用いたものである。 高麗門形式の大手二の門をくぐった先は枡形になっていて、一の門は櫓門形式となっている。大手門付近の石垣には他のお城と同様に石垣に巨石を用いるなど工夫を凝らすものであるが、例学なく枡形には特徴的な形の石を用いた石垣が見られる。ちなみに、天守同様、大手一の門、二の門ともに国の重要文化財に指定されている。大手一の門には中に入れるようになっていた。城下に刻を知らせる太鼓が置かれていたことから太鼓門という異名をもつ。寛文10年(1670)完成。
大手二の門(高麗門形式)・大手一の門(櫓門形式)
内堀および大手門付近巨石
[ 登城 ]
丸亀城内観光案内所
ここで日本100名城スタンプを押すことができる。スタンプは現存天守を頂上に配し、石垣群とともに撮影したもの。浅井三姉妹「初」ゆかりの丸亀とあるのは、初の嫁ぎ先が丸亀城主となった京極家だった由縁によるもの。
番所長屋と玄関先御門
これらの建物群は亀山の麓にある。私が訪問したときにちょうど玄関先で絵手紙を描いている女性がいた。見ると一枚一枚に心がこもっており、さらにはタダで一枚プレゼントもしてくれるという。心温まる大変うれしいお土産ができた。
さて、いよいよ亀山を登りながら本丸を目指す。はじめに見返り坂なる坂を登っていく。途中には高浜虚子の句碑やさまざまな石碑があり、見返りはしなくともわき見をしてしまう。
さほどきつくはないが、坂を登りきってもそこは三の丸で、計算上、本丸に到達するにはさらに二つほど曲輪を通過しなければならないことになる。
[ 三の丸 ]
三の丸高石垣は清正流ともいえる反りが特徴的である。高さ約22mとかなり高い。これだけの石垣を築く技術は並大抵のものではない。 三の丸の南東には月見櫓という櫓があった。現在は跡地になっているがその正面には標高422mの飯野山が存在感を示している。
月見櫓跡
飯野山
通称「讃岐富士」
その名の通り、きれいな三角形をしている。しかし、成層火山として形成された富士山と違い、ビュートとよばれている侵食されて形成された山である。この周辺の石垣も立派である。 422m。
延寿閣別荘・三の丸井戸
ほぼ建築物のない丸亀城であるが、三の丸には延寿閣別館なる建物がある。移築建築で麻布にあった旧藩主京極家の江戸屋敷の一部だったものという。内部が公開されているかは不明だ。 ここにもあった。三の丸井戸は城外とつながっているという伝説のある井戸。深さが驚きの三十一間(約56m)とある。それほどの深さがあれば城外への抜け道もありえない話ではない。
[ 二の丸 ]
二の丸へ。
三の丸よりも一段高い位置に鉢巻のように本丸を取り囲んでいる。三の丸同様一周してみる。三の丸から二の丸に至るには大手と搦手のふたつのルートがある。大手は櫓、枡形に囲まれた厳重なつくりとなっている。一方搦め手側は天守を正面に見ながらとなる。いずれにせよ、お城の中枢部に近いことが良く分かる。
それにしても、どこを見ても石垣の圧倒ぶりには驚かされる。
二の丸井戸
この井戸は三の丸井戸よりもさらに深く、三十六間(約65m)ということである。有名な京都の三十三間堂は自分自身も良く知っている建物であるが、あの長大な建物が横向きにして、さらにあまるほどの深さがあるのだ。日本一の深さを誇るという。今でも水をたたえているとあるので、中をのぞくと確かに水が見えた。このような山城・平山城において、水の確保は死活問題である。もし戦で籠城となったら、水の確保は生命線だからである。したがって、このような場所にわざわざ井戸を掘り、さらにその深さが半端ないのも納得できる。 ちなみに、丸亀城の圧巻の石垣は羽坂重三郎という人物の功績が大きいとのことであるが、敵に通じるのを恐れた誰かが、この井戸に入っている間に上から石を落として彼を殺してしまったという伝説がある。
遠くに瀬戸大橋
[ 天守・本丸 ]
天守
二の丸から一段高いところが本丸である。この天守は全国に12しかない現存天守のひとつである。天守にしては三重の小さな建物であるが、それは御三階櫓として建立されたためだと考える。また、江戸の泰平期には天守は無用の長物とみられていたからではないだろうか。または、幕府にとっては地方の大名の反乱を警戒し、なかなか城の修復、ましてや天守の修築などは許可が下りなかったはずだ。したがって、幕府には(天守ではなく)御三階櫓という名目にすれば、建築の許可も下りやすかったのではないだろうか。こうして、丸亀城には、万治3年(1660)に建築された天守(御三階櫓)が現存している。天守台自体は約2メートルと低いが、ほとんど全てを石垣で包囲した66mの亀山の頂上にあるので迫力はあるように思う。
この建物は見る方向によってまったく違う顔を見せる。 北側は大手に位置し、城下から最も見られる方向になるので、2重目には向唐破風を設けるなど装飾されていることが伺える。しかし、一方で、城内は総漆喰ではあるものの破風もなく単純な外観になっている。同じ建物とは思えないほどである。このような例は現存天守でも弘前城などでしばしば見られるもので、実際訪問するとこのような違いを体感することができるので実に面白い。
[ 搦手口 ]
からめて口 本丸へ登城し、ひととおり天守を見た後は再び麓へ。最後に搦め手を紹介したい。
栃の木御門跡
この門は搦手方面へ繋がる登城路である。立派な石垣が周囲を取り囲みまさに圧倒的。
この付近の石垣は野面積みである。戦国時代によく見られた旧式の石垣の積み方である。しかし、見た目の荒々しさが逆に美しい。時代を経るごとに石垣も洗練されていき、最後は切石で剃刀しか入らないほどの隙間しか持たない切り込みハギなる積み方も見られるようになっていく。石垣一つとっても見た目の美しさから実用性までを見ていくといろいろな発見があるものである。
修復中の石垣も
( 2011年(平成23年)12月29日 訪問 )
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 〒763-0025 香川県丸亀市一番丁 |
---|---|
交通 | JR丸亀駅から徒歩約10分 |
リンク | 丸亀城 www.marugame-castle.jp |
別名 | 亀山城、蓬莱城 |
---|---|
城郭構造 | 渦郭式平山城 |
天守 | 御三階櫓(複合式層塔型3重3階)(1660年築) (独立式層塔型3重3階)(1877年改) |
築城主 | 奈良元安 |
築城年 | 室町時代初期 |
主な改修者 | 生駒親正、山崎家治 |
主な城主 | 生駒氏、山崎氏、京極氏 |
文化財指定等 | 日本100名城(78番) 国指定史跡 国指定重要文化財(天守・大手一の門・大手二の門) 現存十二天守 |