☆☆☆ 三大史跡!? 古代の政庁跡が100名城に選定!
第65話 多賀城
多賀城碑の覆屋
多賀城は古代のお城(というか東北経営の拠点)である。これが100名城のひとつに連ねるのがいささかイレギュラーな気もする。しかし、吉野ヶ里遺跡や根室半島チャシ跡群など中世のお城とは違う史跡も一部100名城になっているので、多賀城もそんな位置づけのお城なのだろう。そして、中世のお城にこだわっていないのが、日本100名城選定におけるコンセプトのひとつなのである。
ただ、日本三大史跡のひとつだったり、全国に六十余ヶ所しかない国の特別史跡だったりと文化的価値は非常に高いものがある。名城と呼べるかは微妙だが、日本の歴史上、多賀城は重要な舞台だったことは確かである。
[ 新幹線「はやぶさ」に乗車 ]
新幹線「はやぶさ」に乗車
2012年3月は東日本大震災からちょうど一年後。 東北新幹線に「はやぶさ」がデビューしてからも約一年。新幹線に乗るのは個人的に好きで、これまでも新幹線に乗車するために旅行に行くこともあったが、今回も、新幹線「はやぶさ」に乗車しつつ、東北の様子を肌で感じる旅となった。
京都から東京駅を経由して「はやぶさ」の一番列車に乗車。仙台駅から在来線(東北本線)で国府多賀城駅下車。長旅であったが、朝の10時頃には到着。
千葉の佐倉からやってきたという老夫婦とともに観光ボランティアガイドの方に案内してもらうことになった。一人で巡るより楽しそう。 JR国府多賀城駅が起点。ちなみに仙石線で別に「多賀城駅」があるので、このような駅名になっている。
[ 除染袋・・・ ]
舘前遺跡・除染袋そして瓦礫の山
この駅の目の前にあるのが舘前遺跡。多賀城に赴任した国司の館跡といわれている。ただ、国司に任じられたとはいえ、任地に赴かない国司もたくさんいたということなので、実際に国司たちが住まっていたかどうかは分からない。除染袋、瓦礫・・・ 震災から一年。復興の息吹は感じられるがまだまだ進んでいない時期。汚染土の受け入れで多くの自治体が大いにもめたのもこの頃だった。
[ 多賀城見学 ]
ガイドさんと佐倉の夫婦との多賀城見学。駅からの道中もなんとなく史跡の中を歩いているっぽい。「特別史跡」という看板の通り、広大な遺跡なのだろう。
多賀城の外郭南門付近。ここから政庁正面まで直線の道が約350mも伸びていた。その道は痕跡が分かるように整備されており、当時の繁栄ぶりをうかがうことができる。
[ 多賀城の碑 ]
その脇にある宝形造の祠。この中に「多賀城の碑」がある。何の変哲もない碑のようであるが、松尾芭蕉は「おくのほそ道」でこの碑と対面して感激したという。すこし話はそれるが、そのときの様子を「おくのほそ道」から引用してみたい。
奥の細道
「爰(ここ)に至りて疑なき千歳の記念 今眼前に古人の心を閲(けみ)す 行脚の一徳 存命の悦び 羇旅(きりょ)の労をわすれて 泪も落るばかり也」
芭蕉は、 「千年前の記念碑をみて、今、目の前に昔の人の心をみている。 このことが旅の恩恵であり、生きる喜び。旅の苦労を忘れて涙が落ちるほどである。」 と言っている。
なんだか自分が旅(特に史跡めぐり)をする理由とそっくり。歴史の舞台に立って、当時の人々に思いを馳せる。「行脚の一徳」「存命の喜び」である。涙が落ちるほどに感動するかといえば微妙であるが。 芭蕉は幕府の隠密とも言われているが、この一節だけを読むとそのような様子は微塵も見られない。
覆屋内部の多賀城碑
この多賀城の碑は「壺の碑」といって古来より歌枕となった碑だと言うことである。「日本三大古碑」とのこと。その制作年代は、8世紀までさかのぼる。
ガイドの方の説明もオリジナルで面白い。芭蕉と曾良のイラストもキュートである。
[ 政庁跡へ ]
多賀城の碑(壺の碑)から政庁跡までは当時でもかなりの幅がある直線道路があった。現在でもその様子は十分にうかがい知ることができる。
ガイドさんが「足元見てください」っていうので下を見るとこのように石が抜かれてあった。特別史跡としての価値をだれかが見出したのか・・・。
こうやって石を持ち帰るなど、心無い不届きがあるのだという。
特別史跡の中でのこのような行い。法に抵触していてもおかしくないのではなかろうか。
振り返って多賀城碑の方向を望んだところ
広い直線道路がのびており、政庁へのかつてのメインストリートだったことがよくわかる状態で保存整備されている。通称を「ハギ大路」というそう。ちなみに正式には「多賀城南門政庁間道路」。
[ 政庁跡 ]
いったん下ってその先にある階段を上った先が多賀城の政庁があったところである。いわば多賀城の中枢部分になる。 政庁は中央に正殿があり、周囲は築地塀で囲まれていたようである。親切にも模型が展示してあった。
これは第二期、8世紀後半頃の建物ということである。ということは坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、蝦夷攻略に奔走していたころと一致する。まさに、坂上田村麻呂がいたころの復元建物模型ということになる。
現在は礎石の跡が残っているのみである。礎石建物は最も古いもので法隆寺の若草伽藍にも用いられているが、この古代城柵遺跡にも見られる礎石建物も日本史上最も古い礎石建物遺跡のひとつと言ってよい。
政庁跡にはよく分からない碑がいくつか建っているが、そのうちの一つに「子爵斎藤實敬白」とある。昭和10年に時の首相、斉藤實(さいとうまこと)が揮毫した碑文のだろう。ちなみに、かれはその数ヵ月後、翌昭和11年(1932)の2.26事件によって命を落とすことになった。
[ 壺碑 ]
ガイドさんの案内はさらに続く。 空堀の覆屋。多賀城の外郭を囲む空堀が一部このような形で展示されています。 説明が面白い。 イラストばかりに目がいくが、飽きさせない話でさらに冗長でない。中央の人物は坂上田村麻呂。多賀城の歴史を語るときに欠かせない人物。
多賀城市のマンホールには「壺碑」の文字が。 この言葉の意味、どれくらいの人が知っているのだろうか。
帰路へ。
今回の訪問でも多くの学びがあった。確かに、名城の訪問という感じではなかったが。
( 2012年(平成24年)3月30日 訪問 )
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 〒985-0864 宮城県多賀城市市川城前 |
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交通 | JR国府多賀城駅から徒歩15分 |
リンク | 多賀城市観光協会 http://www.tagakan.jp |
別名 | |
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城郭構造 | 古代城柵 |
天守 | なし |
築城主 | 大野東人 |
築城年 | 神亀元年(724) |
主な改修者 | |
主な城主 | |
文化財指定等 | 日本100名城(7番) 国指定特別史跡「多賀城跡 附 寺跡」 国指定重要文化財(多賀城碑(壺碑)) |