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2018-08-28 2018-08-28

坂本 龍馬(さかもと りょうま)

Ryoma SAKAMOTO:(1836 - 1867)幕末の風雲児

坂本龍馬:幼い時に母をなくし、姉が母親代わりになって養育したと伝えられています。土佐を脱藩し、勝海舟に弟子入り。その後、長崎で亀山社中を設立。慶応2年(1866)には薩長同盟成立の仲介をしました。

【基本データ】

名前 坂本 龍馬( さかもと りょうま)
生没年

天保6年11月15日 - 慶応3年 11月15日

( Jan.3,1836 - Dec.10,1867 )

改名

 

別名

変名:才谷梅太郎

諱:直陰→直柔

生誕地

土佐国土佐郡上街本町一丁目

現:高知県高知市上町一丁目

死没地

「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)」の碑あり

京都河原町蛸薬師、近江屋

戒名  
官位 贈正四位
墓所

京都霊山護国神社

靖国神社

家族

(主な人物)

父:坂本八平直足(土佐藩郷士)

母:幸

兄弟:

(兄)坂本権平直方

(姉)千鶴・栄・乙女

妻:お龍(楢崎龍)

【生涯】

 

 土佐藩郷士の子として天保6年(1835)誕生。

 幼少は弱い子供でしたが、姉の乙女に教育されて徐々にたくましく育っていきました。

 嘉永6年(1853)、19歳の頃、剣術の修行のために江戸に遊学し、北辰一刀流の千葉道場の門人となりました。この時、有名なペリー来航と出くわします。また、佐久間象山の私塾にも出入りしていました。

 翌年、千葉道場での修行を終え、土佐に帰国して、日根野道場の師範代となりました。

 このころ、絵師でもあった河田小龍の私塾に通いましたが、この時にのちに亀山社中や海援隊でともに活躍する近藤長次郎や長岡謙吉らと出会いました。また、尊王攘夷の思想が高揚していた時期でもあり、土佐でも武市半平太による「土佐勤王党」にも参加しています。しかし、すぐに過激な土佐勤王党とはそりが合わなくなり、脱藩して土佐を離れました。

 文久2年(1862)に脱藩した龍馬は、松平春嶽の紹介で勝海舟と面会します。

 この時に、勝の説得で尊王攘夷思想を改めて、勝の弟子となりました。そして「神戸海軍操練所」で学びます。ここで塾頭になっていましたが、慶応元年(1865)に神戸海軍操練所は閉鎖となりました。

 龍馬をはじめとした海軍操練所の塾生たちの航海術に目をつけた薩摩藩の出資により、龍馬らは長崎で「亀山社中」を設立しました。ここでは、薩摩藩名義で外国(グラバー商会)から武器を長州藩に購入させることを行い、薩摩と長州を結びつけることに一役買いました。

 慶応2年(1866)、倒幕の利害が一致した薩摩と長州が、坂本龍馬の仲介で「薩長同盟」の盟約を結びました。しかし、龍馬はそのために幕府に捕縛されかけ、伏見寺田屋で幕府の捕方と戦い、腕に怪我を負いました(寺田屋事件)。

 寺田屋事件で負傷した龍馬は、傷を癒す名目で薩摩を訪れました。寺田屋のお龍を伴っての薩摩訪問は、日本最初の新婚旅行と言われています。傷を癒すため、霧島温泉などで療養し、ゆっくりと過ごしました。

 慶応3年(1867)、亀山社中は「海援隊」となり、いろは丸事件の処理をはじめ、龍馬は再び多忙の日々を過ごすことになりました。その間、土佐藩の藩船「夕顔丸」で土佐藩士、後藤象二郎に「船中八策」を示しました。後藤は「船中八策」を山内容堂に伝え、その案を徳川慶喜に伝えたことから、大政奉還がなされたと言われています。

 大政奉還がなされたわずかひと月後、龍馬は京都の近江屋に潜伏していたところを、「十津川郷士」と名乗る一派に襲撃され、同郷の中岡慎太郎とともに殺害されました。

 

 

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坂本龍馬 像

 自身の写真アーカイブに確認しただけでも、14箇所の龍馬像が収録されていました。今後も増え次第、追加していきます。それにしても、龍馬さん、全国で今でも愛されているのがよくわかりますね。ダントツの数を誇っています。

 一番有名なのが1まいめ。そして自分が一番好きな龍馬像を最後に載せています!(2018/08/27)

001. 桂浜公園(@高知県高知市浦戸)

桂浜の坂本龍馬像(昭和3年(1928)建立)

高知市の桂浜公園に立つ坂本龍馬像。もっとも有名な龍馬像のひとつ。太平洋を望んで龍馬の故郷、土佐に昭和3年に建立された像高13.5mの立派な像です。


002. 桂浜水族館(@高知県高知市浦戸)

桂浜水族館の坂本龍馬像

高知市の桂浜公園に立つもうひとつの坂本龍馬像。桂浜水族館にある龍馬像です。


003. 龍馬の生まれたまち記念館(@高知県高知市上町二丁目)

龍馬と姉の乙女

三人いた姉のうち、もっとも歳の近かった姉の乙女は、龍馬の幼少期に龍馬の成長に大きく関わった人物です。龍馬が乙女に宛てた手紙は多く、龍馬の業績を知る貴重な資料になっています。

 


004. 日本サンゴセンター本店(@高知県高知市仁井田)

坂本龍馬の坐像

珍しい龍馬の坐像。揮毫は元高知県知事の橋本大二郎氏(異母兄は元内閣総理大臣、橋本龍太郎)です。


005. 長崎まちなか龍馬館(@長崎県長崎市)

珍しい両手を合わせる龍馬像(@長崎浜市商店街)

2010年大河ドラマ「龍馬伝」に合わせて一年の期間限定であった施設。長崎出身の福山雅治が主演をつとめたこともあり、この年は長崎は龍馬で大きく盛り上がりました。


006. 丸山公園(@長崎県長崎市寄合町)

丸山公園の龍馬像

長崎の丸山といえば、日本三大遊郭(残りは「江戸吉原」「京都島原」但し、「大坂新町」という説もあり)多くの幕末の志士、歴史上の有名人が出入りしたと言われる長崎の歓楽街。その中央にある丸山公園に近年、新たに建立された坂本龍馬像です。


007. 島原復興アリーナ(@長崎県島原市平成町)

サムライブルー龍馬像

2010年の南アフリカW杯に合わせて、東京の国立代々木体育館に設置されていたものを島原市が譲り受けました。後ろの山は雲仙岳。龍馬は、初めて長崎に向かった際、熊本から有明海を渡って、島原に立ち寄ったということです。像高は10mもあり、その巨大さは実際に見ると驚きます。


008. 亀山社中の跡(@長崎県長崎市伊良林)

亀山社中の跡に立つ龍馬像

薩長同盟を経済面で支援した薩摩藩らが出資して龍馬らが作った日本初の会社「亀山社中」。長崎にその跡地があり、観光地となっています。


009. 若宮稲荷神社(@長崎県長崎市伊良林)

風頭公園の龍馬像の元となった龍馬像

亀山社中跡や風頭公園にほど近い、若宮稲荷神社の境内にある坂本龍馬像。小さい像です。


010. 寺田屋(@京都市伏見区南浜町)

寺田屋の坂本龍馬像

慶応2年(1866)、薩長同盟が龍馬の仲介で締結された直後、龍馬は寺田屋で幕府の捕方に捕縛されかけます。恋人だったお龍の機転と、懐の拳銃によってなんとか重傷を負いながらも寺田屋から脱出することに成功しました。


011. 「龍馬、お龍と薩摩でひと休み」@鹿児島県鹿児島市大黒町

時標(ときしるべ)4「龍馬、お龍と薩摩でひと休み」

寺田屋で重傷を負った龍馬は、治療もかねて薩摩を訪れました。薩摩へはお龍も伴っており、日本最初の新婚旅行と言われています。薩摩は温泉も多く、霧島温泉など多くの湯治場を回って、傷を癒しました。


012. 坂本龍馬・中岡慎太郎像@京都府京都市東山区

円山公園(京都)の坂本龍馬・中岡慎太郎 像

近江屋事件で殺害された龍馬と中岡慎太郎。現在まで下手人は不明で諸説あります。今のところ、京都見廻組説がもっとも有力です。


013. 坂本龍馬・中岡慎太郎の墓@京都市東山区)

龍馬の墓に立つ坂本龍馬・中岡慎太郎 像

京都霊山護国神社に立つ坂本龍馬と中岡慎太郎の像。近くにある丸山公園の像と似ています。


014. 風頭公園(@長崎市伊良林)

風頭公園

長崎出身の彫刻家、山崎和国氏による坂本龍馬像。紅白紅の海援隊旗がたなびいて、長崎の街を見下ろす方向に立っているかっこいい龍馬像です。


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