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INDEX 感想
1.JR喜々津駅集合(スタート)

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JR喜々津駅
(1)旅のはじまり
待ちに待った長崎街道巡検当日。生徒7名と引率教員2名の計9名という少数精鋭!?での出発。平成13年8月3日、午前9時、集合場所は長崎本線JR喜々津駅です。無事に全員ゴールまでたどり着けるかどうか。暑さとの戦いになりそうです。

        それでは、START


旧長崎街道を示す碑
(2)やまかがしに遭遇!
国道34号線を横切り、高速の高架をくぐって、山道を登る途中、すでにかなり疲れてしまっている様子。仕方なく、一休みしている最中、めったに見たこともない「へび」に遭遇。【やまかがし】との事。このやまかがしはマムシと同じ毒ヘビです。

(3)旧長崎街道発見
休憩も終わり、再びしばらく登った先に、やっと、「旧長崎街道」の標柱がありました。巡検らしく、ここで生徒の一人が調べた【街道について】のレポートを発表しました。

ここでも一休み

峠の茶屋跡


清水の祠
(4)清水の祠
長崎方面へ山道を歩いていった途中に祠(ほこら)を発見。【清水の祠】と呼ばれています。その脇には冷たい湧水が湧いていました。


湧水でタオルを冷やす。
そうしておいて首に巻くと気持ちいい。
暑さも和らぐ。

(5)天然のクーラー
途中の山道は、アスファルト舗装がされてはいるものの、いかにも「街道」という感じのところが多かったです。また、森林にかこまれ、真夏とはおもえないほど涼しく、天然のクーラーといった感じでした。木漏れ日とそよ風が心地よかったです。


籠立場
(6)籠立場跡
しばらくいくと【籠立場】がありました。ここでは籠から降りて休憩をしたところだと説明しました。現在は木々に阻まれて見晴らしも悪いですが、当時は眼下に見える大村湾が一望できたといいます。
中には、籠が何のことか知らない生徒もいましたので、あらかじめ、ひとりの生徒に【籠について】調べさせておきました。ここで、生徒にレポートを発表させました。補足説明をその場で行ない、籠のことが分かったような感じでした。
長崎街道の面影を実際に辿りながら新しいことが分かるという、まさに理想的な歴史学習です。



(7)景色を楽しみながらの旅
中央を通っているのは長崎自動車道、長崎多良見インター付近。車で行けば数十分で移動できる道のりを今回は歩いています。確かに移動の面だけを考えれば、昔は不便極まりないですが、その代わりにこうして美しい景色を見ながらのんびりと旅ができたのだろうなと感じました。

(8)山道を歩く
長崎街道はこの先もしばらく山道が続きます。わざと険しい山道を街道にしたとの説もあります。平地であれば、もう少し楽に歩けるかもしれません。


旧長崎街道

椎木坂
(9)椎木坂
ここは椎木坂と呼ばれています。
今は、狭くて険しいただの山道ですが、ここも多くの人々の往来があったのでしょう。
入口には長崎街道と書かれた石がありました。
(写真左)















【やまかがし】
蛇の一種。全長60〜120p。体色は褐色でまだら模様がある。有毒。水田の周辺に多く棲息し、カエルや小魚を食べる。本州以南の日本と東アジアに分布。






【街道について】
街道とは、広義には道路のことだが、狭義には官道を指す。昔は「海道」の字を当てはめたことがあって、この意味は沿海を通る道というものだが、いつしか海の近くではない山道をも海道と呼ぶようになったので、その不合理を改めるため江戸時代半ば頃には街道、道中と呼ばれるようになった。江戸時代にの主要な五つの交通路には、江戸の日本橋を起点とする、「東海道」「中山道」「日光街道」「甲州街道」「奥州街道」のいわゆる五街道があり、それを延長した各地の街道を脇街道という(長崎街道もふくまれる)。








【清水の祠】
絶えず清水が湧き、今まで一度も絶えたことがないといわれている。文政元年(1818年)建立。

















































【籠立場】
大名行列などの時、大名の乗り物である籠をおいて休憩をした所。ここの籠立場は、標高145mもあり、大村湾の眺望などを楽しんだ場所といわれているが、現在は前方の木々に阻まれて、当時見ていた景色を眺めることはできない。

【籠について】
貴人が乗る乗り物。家格や身分の差によって造りに差があった。江戸時代には、重要な乗り物(交通手段)であったが、今では機械が発達し、山登りや葬式、病人用などに残っているに過ぎない。

旅はまだまだ続きます

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