トップ > シリーズ > お城シリーズ > 031米沢城

最終更新日: 2018-09-20

米沢城 Yonezawa Castle

島原城

[ あの名門上杉氏の居城、伊達政宗の生誕地でもある ]

江戸時代は15万石の上杉氏の居城。伊達政宗生誕地でもあります。蒲生氏に代わって、上杉景勝が会津の領主になったときは、重臣であるあの直江兼続が城主となりました。関ヶ原ののちは、大幅に減封された上杉景勝が城主となりました。江戸時代には、名君として世界にも名を馳せた上杉鷹山を輩出しました。

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address 山形県米沢市丸の内1丁目4-13 (上杉神社)
交通

JR米沢駅

公式サイト Official Site

 

別名 舞鶴城、松ヶ岬城
城郭構造 輪郭式平城
天守

なし

築城主 長井時広
築城年 暦仁元年(1238)
主な改修者 伊達晴宗、蒲生郷安、上杉景勝
主な城主

長井氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏

文化財指定等

続日本100名城(109番)
山形県史跡

撮影日
2008-08-02

[ 二の丸 ]

JR米沢駅からは西へ大通りをまっすぐ。途中、松川にかかる相生橋を渡りますが、この付近はお寺が多いです。それらのお寺の古い墓石は万年塔型という形で、直江兼続が合戦の時に石塁に利用しやすいようにと考えたものです。さらに西に1キロほどで米沢城にたどり着きます。本丸にある上杉神社へと続くこの参道付近は、当時は二の丸だったところで、現在は、松岬神社、上杉記念館(旧上杉伯爵邸)、伝国の杜(上杉博物館)などの施設があります。

 

[ 松岬神社 ]

松岬神社(まつがさきじんじゃ)は明治35年(1902)に上杉神社の摂社として本丸の東、世子御殿跡に創建されました。祭神は、上杉景勝(米沢藩初代藩主)、直江兼続、上杉鷹山(治憲)、細井平洲、竹俣当綱、莅戸義政。

 

[ 上杉鷹山公像(松岬神社) ]

上杉鷹山(ようざん)公は、上杉家第10代当主です。儒学者細井平洲に師事し、17歳で藩主になりました。以降、さまざまな改革を行って困窮、崩壊寸前だった米沢藩を復興させた藩中興の祖です。凶作に備え、米の備蓄なども行っていたこともあり、天明の飢饉のときは、近隣の藩で多くの餓死者を出したにもかかわらず、米沢藩は一人として出なかったということです。ジョン・F・ケネディ元アメリカ大統領が尊敬する政治家として上杉鷹山を挙げたことは有名です。

 

[ 「伝国の辞」碑 ]

上杉鷹山公が、11代上杉治広公に家督を譲った際に与えたものです。民主主義の原点ともとれる内容のものです。次の三カ条からなります。「一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候」「一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候」「一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候」

 

[ 舞鶴橋 ]

米沢城本丸東に架かる橋です。現在本丸にある上杉神社の表参道ともいえる橋です。上杉謙信の旗印「毘の一字旗」と「懸かり乱れ龍」がはためいています。

 

[ 内堀1 ]

このように内堀は現存しています。特徴的なのは石垣ではなく土塁で固められている点。さらに土塁も高いとはいえず、堅城とは言い難い気もします。さらに外側の二の丸と三の丸の間にも堀がありましたが現存していません。

 

[ 案内図 ]

本丸部分が内堀とともに残されています。典型的な輪郭式の縄張りをしています。堀の外側は二の丸で、その外側には三の丸がありましたが、三の丸はほとんど残されていません。

 

[ 上杉景勝 ]

上杉景勝(1555~1623)は米沢藩の初代藩主です。豊臣政権下では会津120万石の大名となり、五大老のひとりとなりました。秀吉の死後は家康と対立、関ヶ原で家康率いる東軍が勝利したこともあり、30万石に減封され米沢にやってきました。(写真は案内板にあったものを撮影)

 

[ 伊達政宗 ]

「独眼竜」として有名な戦国時代の武将、伊達政宗(1567~1636)は米沢城生まれです。幼名は梵天丸といいます。後に本拠地を仙台に移し、仙台藩62万石の始祖となりました。(写真は案内板にあったものを撮影)

 

[ 直江兼続 ]

直江兼続(1560~1619)は上杉景勝の重臣です。同じ上杉景勝の重臣だった直江家を継いでからは直江兼続と名を改めました。秀吉政権下で主君の上杉景勝が会津120万石の大名となると、米沢に城代として入ります。また、関ヶ原の合戦後、上杉家が米沢30万石に縮小された後も、町割り、水路の整備等米沢発展の基礎を築きました。(写真は案内板にあったものを撮影)

 

[ 上杉謙信祠堂跡 ]

江戸時代、上杉謙信の遺骸を安置した祠堂が建っていた場所です。天正6年(1578)3月13日、越後春日山で逝去、遺骸は甲冑を着せ甕に納め、漆で密閉されたといわれています。その後、会津、米沢と謙信の遺骸は移されていきましたが、明治4年(1871)に歴代藩主が眠る御廟所に移されたので、跡地が残っています。

 

[ 招魂碑 ]

戊辰戦争(1868)および西南戦争(1877)での戦死者を慰霊するために明治11年(1878)に建てられました。その後、日清、日露戦争での戦死者も合祀されています。

 

[ 伊達政宗公生誕之地 ]

仙台城主で仙台藩初代藩主の伊達政宗は米沢城で生まれました。幼名は梵天丸といいます。その後、東北地方最大の大名として名をはせ、現在に至る仙台の基礎を築きました。

 

[ 上杉鷹山公像(米沢城) ]

アメリカ合衆国第35代大統領J・F・ケネディが日本人の記者団に「日本の政治家の中で最も尊敬しているのは上杉鷹山である。」と答えたそうです。しかし、その当時、まだ日本人のほとんどが上杉鷹山がだれなのかということを知りませんでした。

 

[ 上杉謙信公像(米沢城) ]

上杉謙信は天正6年(1578)3月13日、享年49で死去。遺体は甲冑を着て甕に納められたといいます。初めは春日山城内へ、その後、本拠地が会津、米沢と遷るにしたがって移動し、現在は米沢の上杉家廟所に眠っています。

 

[ 上杉曦山公之碑 ]

上杉曦山(ぎさん)公は、上杉家第13代当主、斉憲の号です。斉憲の治世のときがちょうど幕末、明治維新の激動の時代でした。明治22年(1889)5月20日、東京にて薨去しました。二年後の明治24年(1891)に旧藩士によりこの碑が建立されました。

 

[ 稽照殿 ]

上杉神社宝物殿「稽照殿」(けいしょうでん)です。登録指定博物館、登録有形文化財。入館料は大人400円(高大300円、小中200円)。直江兼続愛用の「愛」の前立ての甲冑(金小札浅葱糸威二枚胴具足(きんこざねあさぎいとおどしにまいどうぐそく))も展示されています。

 

[ 西参道 ]

西参道付近の堀には蓮が植えられており、きれいな花を咲かせています。

 

[ 菱門橋 ]

南参道へとつながる朱色の橋です。米沢城本丸跡(上杉神社境内)へは、東西南北それぞれにひとつ橋が架かっています。菱門橋はそのうち、南側に架かる橋です。

 

[ 内堀2 ]

土塁にかこまれており、規模は小さいです。土塁の高さもさほどでもなく、防御としての機能は小さいように見えます。

 

[ 春日神社 ]

上杉家の居城があった春日山の山頂は、奈良の春日大社から分祀された春日神社がありました。上杉家は、代々春日社を守り続け、藩主の移封とともに会津、米沢と移ってきました。明治5年(1872)に現在の地に移りましたが、大正8年(1919)の米沢大火の時に焼失し、松岬神社に合祀されていました。その後、昭和56年(1981)に再建され、現在に至っています。

 

[ 赤穂事件殉難追悼碑 ]

元禄赤穂事件で大石内蔵助ら赤穂浪士によって吉良上野介義央が殺害されました。この吉良上野介は米沢藩第3代藩主、上杉綱勝の娘婿にあたります。さらに、第4代藩主、綱憲の実父でもあるため、上杉家とは深いつながりがありました。また、養子の吉良義周は上杉綱憲の実子という関係もあり、上杉家からは義周お付きの家来が、何人か討ち入り当日に吉良邸にいました。彼らは、もちろんその時に戦死または重傷を負ったものもいて、まさに上杉家側から見た吉良邸討ち入り事件は「殉難」だったことがわかります。碑文にも、「赤穂浪士事件の為に上杉家の不幸後年に及ぶ」とあります。

 

[ 上杉謙信公の詩碑 ]

「霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更 越山併せ得たり能州の景 さもあらばあれ家郷遠征を憶う」 上杉謙信が七尾城(石川県)を攻略した際に詠んだ詩です。上杉家第16代当主隆憲氏(号 静山)が揮毫したものです。

 

[ 上杉神社本殿 ]

上杉謙信公を祀っています。大正8年(1919)の米沢大火で焼失しましたが、大正12年(1923)に再建されました。

 

 

旧上杉伯爵邸

所在地
山形県米沢市丸の内1丁目3-60

交 通
JR山形駅からは山形新幹線または奥羽本線経由、JR米沢駅下車

その他
電話番号/0238-21-5121
FAX番号/0238-21-5122
開館時間/午前10:00~午後9:00
休館日/毎週水曜日(4月~11月まで無休)

コメント
明治29年米沢城二の丸・寺院跡に上杉茂憲伯爵邸として建てられてのが始まりです。昭和54年(1979)から上杉記念館となっています。登録有形文化財。


 

 

[ 入口 ]

現在、上杉記念館といわれているところは、明治29年米沢城二の丸・寺院跡に上杉茂憲伯爵邸として建てられたのが始まりです。昭和54年(1979)から上杉記念館となっています。登録有形文化財。

 

[ 玄関 ]

登録有形文化財の建物は、現在、主に米沢の郷土料理や米沢牛料理などが食べられる宴会場として利用されています。米沢の郷土料理の原点ともいわれる、上杉鷹山公の「かてもの」を味わうことができる米沢唯一の館ということです。

 

[ 仏間客間大広間 ]

手前の宝形造りの部分が仏間、中央が居間および客間、奥が大広間となります。これらの部屋はすべて解放されており、とくに大広間は最大46名が収容できるようです。

 

[ 上杉鷹山公胸像 ]

米沢藩中興の祖、上杉鷹山公です。米沢の郷土料理の原点ともいわれる「かてもの」を考案したことでも知られています。もともとは天明3年の凶作の時に藩医に命じてその研究が始まったということです。「かてもの」とは主食にまぜて炊くものの意味があり、主食を増量して空腹を満たす役割がある食べ物をいいます。鷹山公の時に考案された「かてもの」として植物だけでも82種類もあるそうです。

 

[ 日本庭園 ]

大正8年の米沢大火によって焼失した後、大正14年に母屋とともに造られました。モデルとなっているのは東京の浜離宮です。この旧上杉伯爵邸は、かつては「鶴鳴館」といわれ、皇族の御旅所ともなりました。

 

[ ウコギの垣根 ]

米沢藩中興の祖、上杉鷹山公が奨励したことにより、普及したといわれています。米沢の多くの家々で古くから垣根として利用されています。ウコギは、食用にも適しており、ビタミンなどが豊富に含まれています。春先に新芽を摘み、きりあえ、てんぷらにして食べます。

 

地図 Map

2018/09/18現在

▲top