最終更新日: 2018-05-30

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島原城 Shimabara Castle

 

島原城

[ 小藩に似つかわぬ巨大な城郭 ]

小藩でありながら巨大な城郭建築。庶民に強いられた負担は後に島原の乱の原因となっていきました。

連郭式の平城で、五層の天守閣の他に三重櫓が3つ存在する豪壮なお城です。築城したのは大和五条(奈良県)から移封された松倉豊後守重政です。別名を森岳城といいます。城門は7ヶ所、平櫓の総数は33棟あったとのことです。

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address 長崎県島原市城内1丁目1183-1
交通

島原鉄道 島原駅

公式サイト Official Site

島原城公式
http://shimabarajou.com

別名 森岳城、高来城
城郭構造 連郭式平城
天守

・独立式層塔型4重5階(1626年築 非現存

・独立式層塔型5重5階(1964年RC造復興)

築城主 松倉重政
築城年 寛永元年(1624)
主な改修者  
主な城主

松倉氏、松平氏

文化財指定等

日本100名城(91番)
長崎県指定史跡

撮影日
2013-12-29
2010-08-12
2004-08-06


[ 大手門跡 ]

警察の派出所の脇に、島原城の正門である大手門の跡を示す碑があります。

 

[ 丑寅櫓 ]

丑寅櫓は現在、民具資料館として利用されています。島原城に3つある三重櫓のひとつです。昭和55年(1980)に再建されました。

 

[ 西櫓 ]

西櫓は天守閣再建に先立って昭和35年(1960)に再建されました。三重櫓です。天守閣がある場所よりも一段高い位置にあります。島原城は地形を無視して造られた城郭とのことですが、本丸よりも高い位置にあるのもそのせいでしょうか。

 

[ きりしたん墓碑 ]

キリシタン大名の有馬氏の時代は島原でも宣教活動が活発に行われていました。しかし、時代を経て、禁教そして弾圧へとキリシタンに対する処遇も変わりました。とりわけ松倉氏はキリシタンを弾圧し、島原城築城や天下普請の積極的な協力などによって島原の乱を招く要因をつくってしまいました。

 

[ 御馬見所 ]

幕末の藩主、松平忠和公の時代。藩主が藩士の訓練状況を見るのに使用していたとの事です。島原城の三の丸にあったものをこの場所に移築したものです。

 

[ 天守閣1 ]

内部はキリシタン関連の資料館となっていて、有名なキリシタン大名である有馬晴信の時代から島原の乱までの時代を紹介しています。特に、島原の乱関係の史料が豊富です。

 

[ 本丸・二の丸を囲む堀 ]

二の丸と本丸の間の部分です。かつては、ここに橋が架けられていて、その橋を渡ってのみ本丸へ入ることができていました。現在、本丸へと入ることができる入口は最近造られたものです。

 

[ 巽櫓 ]

巽の櫓は、北村西望記念館として使用されています。日本彫刻界の巨匠である北村西望の作品、約60点を展示しています。

 

[ 北村西望像 ]

明治17年12月16日、長崎県南高来郡南有馬村(現在の南有馬町)に生まれました。日本彫刻界の巨匠で数々の作品をつくりました。中でも長崎市の平和公園内にある「平和記念像」は代表作といってよいでしょう。他にも国会議事堂内にある「板垣退助翁像」などを制作しました。昭和62年3月4日、享年104歳で没しました。

 

[ 天草四郎像 ]

島原の乱で一揆軍の総大将となった天草四郎の像です。

 

[ 若き日の織田信長像 ]

若き頃の織田信長像です。同じものが岐阜公園内にもあります。

 

[ 天守閣2 ]

天守閣は、元和2年(1616)の築城時から明治8年(1875)の破却まで存続し続けました。外観は破風が一切無く、どこか単調に見えますが、その分他のお城にはない特徴を持っているといえます。現在の天守閣は古い絵図などを参考に昭和39年(1964)再建されたそうですが、築城時には海鼠壁が四層目まであったらしいなど、あまり正確ではないとのことです。

 

城下町散策 〜島原鉄砲町武家屋敷〜

 

[ 島原鉄砲町武家屋敷 ]

中央に用水溝が流れています。幅は70cmで周りは石垣で固められています。この水は湧き水で飲料水としても利用されていました。回りは石を積み上げた塀で囲まれていますが、防御としての意図もあったことでしょう。

 

[ 佐久間邸跡 ]

佐久間家は、二代藩主松平忠雄公時代に、知行高100石とこの地に屋敷を下賜されました。時の当主、佐久間太郎左衛門の名を代々佐久間家は世襲しました。

 

[ 鳥田邸 ]

鳥田家は藩主松平氏の転封に伴って、三河国吉田、そして丹波国福知山を経て寛文9年(1669)、島原に入りました。地方代官や郡方物書、材木奉行などの要職を歴代にわたり多くの重職につきました。

 

[ 時鐘楼 ]

藩主松平忠房公は、民に時を告げるために、ここに鐘楼を築いて、延宝3年(1675)豊後高田の知工、藤原正次に巨鐘を鋳造させました。島原の人々には、おかみの鐘として親しまれていましたが、昭和19年(1944)に太平洋戦争のために供出されました。昭和55年(1980)に復元されて現在に至っています。

 

"島原大変"を知ってますか?

寛政4年(1792)

島原城下に大地震が起きました。そして、雲仙普賢岳山系のひとつ眉山が崩壊し、3億トンともいわれる土砂が城下や有明海へ向かって流れ落ちました。この土砂による衝撃で有明海の対岸にある肥後(熊本県)へ巨大な津波が押し寄せ、多くの犠牲者が出ました。さらに、その返し波が再び島原城下に押し寄せるなど、被害は拡大していきました。この出来事を「島原大変、肥後迷惑」といいます。死者は合わせて約1万5千人。現在も記録が残る史上最悪の火山災害となりました。ちなみに、島原市沖の有明海に点在する九十九島はその時の土砂によってできた島々なのだそうです。

地図 Map

2018/05/30現在

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