トップ > シリーズ > お城シリーズ > 030名古屋城

最終更新日: 2018-09-20

名古屋城 Nagoya Castle

島原城

[ 御三家のひとつ尾張徳川家の居城、意外にも織田信長の生誕地でもある ]

徳川家康が九男義直のために天下普請で建てたお城。江戸時代は御三家のひとつ尾張徳川家の居城として栄えました。築城は慶長14年(1609)です。天守閣は明治以降も存続していましたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失し、戦後外観のみ当時の姿にし、鉄骨鉄筋コンクリート造で復元されました。なお、徳川家康が築城する前には、今の二の丸付近を中心に那古野城があり、織田信長はそこで生まれたといわれています。


【特記事項】

2018/09/18: 平成30年(2018)についに本丸御殿の木造復元が完成しました。今度は、天守の木造復元がはじまります。2022年の完成予定。最後に訪問したのは本丸御殿の復元工事が進捗し、本丸御殿の一部や工事の様子が公開されていました。こちらの様子は、「日本100名城探訪記」で紹介する予定です。

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address

〒460-0031 愛知県名古屋市中区本丸1番1号 (名古屋市観光文化交流局名古屋城総合事務所)

交通

地下鉄:名城線 市役所駅 または 鶴舞線浅間町駅

名鉄:瀬戸線 東大手駅 ほか

公式サイト Official Site

名古屋城公式ウェブサイト
www.nagoyajo.city.nagoya.jp

別名 金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城
城郭構造 梯郭式平城
天守

・連結式層塔型5重5階地下1階(1612年築 非現存)

・連結式層塔型5重5階地下1階(1959年RC造 外観復元)

築城主 徳川家康
築城年 慶長14年(1609)
主な改修者  
主な城主

徳川氏

文化財指定等

日本100名城(44番)
特別史跡 名古屋城跡

● 史跡名勝記念物
名勝 名古屋城二之丸庭園
天然記念物 名古屋城のカヤ

● 国指定重要文化財(建造物)
名古屋城旧二之丸東之門
名古屋城二之丸大手ニ之門
名古屋城(西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓、表二の門)

撮影日
2012-11-03
2004-08-11


[ 名古屋城案内図 ]

名古屋城の縄張りは梯郭式に分類されますが、あまり工夫がなされておらず、難攻不落とは言い難いとのことです。本丸はほぼ正方形をしていますが、四隅には他の城では天守閣にも匹敵するほどの巨大な櫓を擁しており、それらを多門櫓で連結していました。

 

[ 名古屋能楽堂前 ]

名古屋城の正門前に「名古屋能楽堂」があります。名古屋能楽堂は客席数は630もあり、地方自治体の設置する能楽堂としては最大規模です。多面的利用が可能なように音響、照明施設も充実しているとの事です。ここには名古屋城の築城時に活躍した加藤清正の像があります。

 

[ 正門 ]

明治43年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されましたが、空襲によって焼失したため、昭和34年(1959)に天守閣とともに再建されました。

 

[ 西南隅櫓 ]

濃尾大地震で崩壊しましたが、大正12年(1923)に宮内省によって修理復旧されたもので、用材は江戸時代からのものを多用しているため、現存といってよいものです。そのため、重要文化財にも指定されています。宮内省が復元したので、鬼瓦などには菊花紋がみられます。二層三階の大きな櫓で、外側に面している方には、石落としを備えてありますが、屋根は千鳥破風にして擬装してあります。西南の方向にあるので、未申櫓といわれていました。

 

[ 表二之門 ]

「古くは南二之門と呼ばれ、本丸追手桝形の外門に当たるもので、門柱・冠木とも鉄板張りとし、用材は木割りが太く堅固に造られている。袖塀は土壁として数少ない遺構である。」以上案内板。袖塀には鉄砲狭間もあります。重要文化財。

 

[ 東南隅櫓 ]

東南、すなわち辰巳の方角にある隅櫓なので、辰巳櫓とよばれています。創建当時の姿を伝えるもので、鬼瓦には葵の門がみられます。西南隅櫓が宮内省が修復したことによって鬼瓦が菊花紋なのと対照的です。

 

[ 清正公石曳きの像 ]

天下普請のお城である名古屋城の石垣普請は多くの大名が参加しましたが、もっとも重要といえる天守閣の石垣工事を担当したのは加藤清正でした。清正は、巨石を修羅に乗せて運ぶ時、石の上に乗り、気勢を上げたと伝えられています。これは世に「清正の石曳き」とよばれています。なお、天守閣の石垣は、加藤清正が得意とした「扇の勾配」がみられます。

 

[ 二の丸庭園(那古野城跡) ]

今川氏がこの地に城を築き、那古野城と名付けました。その後、天文19年(1532)に織田信秀(信長の父)がこの城を奪い、居城としました。その後まもなくの、天文3年に信長がこの地で生まれたといわれています。したがって、那古野城があったこの二の丸庭園付近は織田信長の生誕地ということになります。

 

[ 旧二之丸東二之門 ]

二の丸にある愛知県体育館付近にこの門があったということです。二の丸の東から二の丸に入った付近は、桝形の跡らしい構造が見られます。昭和38年(1963)に体育館が建設される時に、解体保管されていましたが、昭和47年(1972)にこの地に移築されました。形式は高麗門造、本瓦葺き。もともとは東鉄門といわれていました。

 

[ 清正石 ]

旧二之丸東二之門をくぐった正面にあります。巨大な石は、このように目立つところに置かれ、防備を誇示する効果を狙っています。この石は加藤清正が運んできたので「清正石」と名付けられていますが、この付近の石積みを担当したのは黒田長政だったので、単なる説話とも考えられています。

 

[ 本丸御殿跡 ]

天守閣の前には本丸御殿がありましたが、空襲によって焼失しました。このように礎石だけが残されています。

 

[ 天守閣 ]

本丸西北隅にあります。小天守閣を渡り廊下でつないだ連結式とよばれる形式となっています。創建時の天守閣は慶長17年(1612)に完成ました。その後、明治以降も存続しましたが、太平洋戦争の空襲によって惜しくも焼失しました。戦後、再建された天守は鉄骨鉄筋コンクリート造の外観復元とすることになり、昭和34年(1959)10月1日に竣工しました。内部にはエレベーターが備え付けられています。

 

[ 小天守閣1 ]

正面から見ると初層部分には窓さえなく、大天守と見比べると非常に見劣りする感じがしないでもありません。しかしながら規模は大きく、他のお城の天守閣相当の高さがあります。なお、大天守へは一旦この小天守に入り、渡り廊下を渡らないと行くことができないつくりになっています。

 

[ 渡り廊下(天守閣入口) ]

大天守と小天守を連結する渡り廊下の部分です。正面に大天守入口が見えます。

 

[ 小天守閣2 ]

大天守と小天守を連結する渡り廊下から撮影したものです。こちらの側面には小天守閣にも千鳥破風がみられるほか、初層にも窓が見られます。

 

[ 大天守閣1 ]

層塔型で石垣上の高さは36.1m、石垣(19.5m)も含めると55.6mにもなります。また、屋根はすべて銅瓦でふかれてありますが、これは宝暦5年(1755)に行われた大天守の修復工事以降から見られるものです。

 

[ 大天守閣2(上層部) ]

再建された時に最上階を展望部分とした関係上、窓の大きさは創建時の天守閣よりも大きくなっているそうです。有名な金鯱は北側(写真では右側)がオス、南側がメスなのだそうです。大きさは均等ではなく、オスのほうが若干大きいですが、鱗の枚数はメスのほうが多くなっています。

 

[ 不明門 ]

不明門(ふめいもん)。多聞塀の下をくぐる埋門で、本丸御殿の大奥へ通じる秘門でした。常に施錠されており「あかずの門」とよばれていました。

 

[ 不明門(外側) ]

この不明門は昭和20年(1945)5月14日の空襲で天守閣などとともに焼失しました。昭和53年(1978)3月、原形の通りに再建されました。

 

[ 不明門付近からの天守閣 ]

特に天守台の石垣が反り出ている「扇の勾配」が特徴的です。他には、熊本城などにみられる積み方ですが、これは熊本城を築城したことでも知られる加藤清正が担当していたからでです。「清正流三日月石垣」といわれています。

 

[ 塩蔵構跡 ]

深井丸の東端に位置しています。築城以後無名の場所でしたが、寛文三年(1663)に塩を貯蔵する蔵が建てられたことから塩蔵構とよぶようになりました。

 

[ 天守閣礎石 ]

本丸から不明門を出た場所、東側に塩蔵構跡が位置するところに、天守閣の礎石が並べられています。再建された天守閣は、鉄骨鉄筋コンクリート造りで、石垣に負担を与えないつくりになっています。それ以前の創建時の天守閣はこれら礎石の上に柱が立てられてありました。

 

[ 本丸空堀 ]

水掘りが多い中、空掘りになっているのが珍しい感じがします。規模はかなり大きい部類に入るのではと思います。両側にそびえる石垣がまた圧倒的です。写真左側のひときわ高くて反りがはいった石垣は天守台の石垣です。右側は深井丸になります。

 

 

[ 乃木倉庫 ]

旧陸軍省の弾薬庫として使用されていたものです。名称の由来は、陸軍少佐、乃木希典からとされていますが確証はありません。昭和20年(1945)5月14日に起きた名古屋空襲により天守閣、本丸御殿等は焼失してしまいましたが、この倉庫は焼失を免れました。本丸御殿内にあった障壁画の一部は、空襲が始まる前からここに避難させておいたので、焼失せず、現存しています。

 

地図 Map

2018/09/18現在

▲top