最終更新日: 2017-11-03 

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唐人屋敷跡 Site of the former Chinese quarter

長崎にあった中国人居留地の現在は?」

 

唐人屋敷跡

唐人屋敷跡 Tojin-Yashiki ( Site of the former Chinese quarter )

元禄元年(1688)に造成が開始され、翌年の元禄2年(1689)に中国人の居留地として完成しました。広さ36252平方メートル(9373坪)もあります。密貿易を取り締まるため、周囲は煉塀と竹矢来で囲まれており、自由に行き来はできませんでした。2000~3000人の中国人を収容することができたということです。

 


 

唐人屋敷絵図

二階建ての瓦葺き長屋が20棟。地主神を祀る土神堂や天后堂、観音堂(関帝堂)などもあります。入口は大門、二ノ門という二つの門で厳重になっており、入口には番所があります。

 

広馬場商店街

文久3年(1863)ころ、居留地として梅香崎までを埋め立てて広馬場と名付けました。写真はその現在の姿、広馬場商店街の入口です。右手は館内市場、先に歩いて行くと正面に土神堂があります。なお、この門は二の門とよばれています。

 

土神堂入口

館内市場を右手にみた先に、土神堂の入口があります。もともと唐人屋敷があったころは、正門である大門、二ノ門をくぐった正面にありました。唐人屋敷が完成した2年後の元禄4年(1691)に建立されました。

 

土神堂

土神堂は元禄4年(1691)に唐船の船主らの願いによって建てられました。天明4年(1784)の大火で焼失しましたが、後に唐三か寺によって再建されました。その後は改修されながら存続していましたが、老朽化が進んでいたことに加え、原爆の被害を受けたことから昭和25年(1950)に解体されました。現在の建物は昭和52年(1977)に長崎市が復元工事を行ったものです。

 

唐人屋敷の堀1

密貿易を防ぐなどの理由から、唐人屋敷の周囲は堀と塀で囲まれ、その外側には竹垣がありました。この小さな川は、唐人屋敷の西側の堀の名残です。

 

唐人屋敷の堀2(森橋)

唐人屋敷の西側の堀跡には、この森橋という小さな橋があります。この橋は明治25年(1892)に造られた石造りアーチ橋です。寄贈者の森伊三次氏の名前からこの名がつけられました。

 

天后堂1

唐人屋敷の南西隅にあります。天文元年(1736)、南京地方の人々が航海の安全を祈願し、航海の神「天后聖母」をまつったのが起源とされています。その後、寛政2年(1790)に修復されました。現存する建物は、明治39年(1906)に全国の華僑の寄付で建てられました。

 

四隅モニュメント(南西)

天后堂の裏手付近にあります。ほぼ長方形をしていた唐人屋敷は、現在はありませんが、このように当時の位置を示すモニュメントが存在します。この南西隅付近は、今でも堀(空堀)があります。

 

唐人屋敷堀跡

唐人屋敷の南側に位置していた堀跡です。このように、往時の唐人屋敷は周囲に塀と堀がめぐらされてあり、外側には竹垣が配置されるなど、厳重に囲まれてありました。正面の小さな橋は森伊橋といいます。

 

唐人屋敷堀跡(森伊橋)

森伊橋は明治時代になって、唐人屋敷の堀に架けられた小さな石橋です。このように、生活道として現役で活躍しています。名称の由来は、先に紹介した森橋と同様、寄贈者の森伊三次氏によるものです。左に唐人屋敷の南西隅だった場所を示すモニュメントがあります。

 

堀跡を示すグリーンベルト

唐人屋敷の南側に現存する空堀は途中で途切れています。しかし、このように当時の堀の位置を示す緑色の帯が道路上にあります。写真左側が唐人屋敷です。

 

観音堂入口

観世音菩薩と関帝(関羽)がまつられています。現在の建物は、大正6年(1917)に改築されたものですが、入口のアーチは元文2年(1737)創建時のものということです。

 

観音堂

瓢箪池の奥の石に「元文二年・・・」の刻字があったことから、その年に創建されたと思われるとのことです。天明4年(1784)の大火で焼失し、その3年後に再建されました。現在の建物は、大正6年(1917)中国の商人、鄭永超によって改築されたものです。

 

四隅モニュメント(南東)

唐人屋敷は地形的に東側が高くなっており、ちょうど長方形の板を東に高く、西に低くしたような感じになっています。この東側隅の南から北にかけては高台になっており、素晴らしい眺望が広がります。

 

復元された塀

南東隅モニュメントの脇に、このように往時の唐人屋敷を囲んでいた塀を復元したものがあります。塀を越えて中に入れば、厳しく罰せられていたそうです。

 

四隅モニュメント(北東)

唐人屋敷の北東隅を示すモニュメントです。唐人屋敷の入口は北西側にありました。

 

唐人屋敷景(過去)

案内板の写真を撮影しました。明治初期の写真です。左手に二本竿みたいなものが立っていますが、そこが土神堂です。その脇、写真中央に見える橋が梅香崎橋です。写真右手奥の海岸部には、出島や新地が見えます。

 

唐人屋敷景(現在)

左の写真の現在の様子(2008)をほぼ同じ角度から撮影しています。人口が増加するにしたがって、狭い平地だけではなく、周辺の斜面まで市街地化が進んでいることがわかります。正面の山は稲佐山(高さ333m)です。山の形だけは昔も今も変わりません。

 

海星学園

この付近から南西方向の丘の上には、ひときわ目立つ洋風の建物が見えます。白壁に青の屋根をしたこの建物は、長崎海星中学校・高等学校の校舎です。

 

活水学院

活水女子大学東山手キャンパス。

 

春節の賑わい(福建会館)

福建会館は明治30年(1897)の建立。しかし、会館本館(会議所)は原爆により倒壊しました。現存する天后堂、正門は市指定文化財です。春節(旧正月)の時期はこのように飾り付けられ、多くの人で賑わいます。

 

福建会館正門

三間三戸の薬医門形式で、中国風の要素も若干含まれているものの、組物の形式や軒反りの様子、絵様の細部など、主要部分は和様のつくりとなっています。

 

福建会館孫文像

この像は、正式には「孫中山銅像」といい、辛亥革命90周年を迎えた平成13年(2001)11月、日中友好のシンボルとして上海市から寄贈され、福建会館内に建立されたものです。孫文は、明治30年(1897)に初めて長崎を訪れてからは何度も、足を運び、生涯のうちで9回も長崎を訪れているそうです。

 

福建会館天后堂

外壁煉瓦造りの天后堂です。正門が和様なのに対し、こちらの建物は中国風となっています。ただし、一部は和様(日本風)の様式がみられるそうです。

 

福建会館天后堂内部

本尊として祭られているのは「媽祖様」とよばれ、中国福建省で宋の時代にはじまった民間信仰で航海の守り神として信仰されていました。実在した人物がモデルとなっているということです。

 

福建会館裏手

福建会館の裏手にある公園はシーズンになると藤の花が美しいとの事です。この福建会館自体は、明治期に入って建立されましたが、唐人屋敷があった時代は、この位置には聖人堂という建物があったということです。

 

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address 〒850-0906 長崎県長崎市館内町14
交通 JR長崎駅より路面電車(1番系 長崎駅~築町)約8分、徒歩(築町電停~唐人屋敷跡)7分
URL  

 

2015/12/03 現在

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