最終更新日: 2017-10-21 

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浦上天主堂 Urakami Cathedral

原爆の悲劇を伝える「祈りの長崎」の象徴」

 

浦上天主堂

浦上天主堂 Urakami-Tenshudo ( Urakami-Cathedral / Urakami Catholic Church )

最初の仮天主堂が建設された後、フランス人の当時の主任司祭フレノ神父が石と煉瓦造りのロマネスク様式の聖堂を設計、監督し、信徒たちの労力奉仕や献金によって新聖堂が建設されました。途中、資金難やフレノ神父が過労に倒れたこともあり、屋根を木造瓦葺に変更して大正3年(1914)に一応の完成をみました(双塔の完成はさらに11年後)。床面積は352坪で当時東洋一だったとの事です。被爆倒壊後、現在の天主堂が509坪の面積を誇る大聖堂として再建されました。さらに昭和55年(1980)にローマ法王、ヨハネパウロ2世の訪問に併せて、外観を赤煉瓦造、内部を美しいステンドグラスに飾るなどの改築を行いました。

 


 

浦上天主堂 石垣

天主堂の石垣 Ishigaki ( Stone wall )

浦上天主堂がある浦上の小高い丘は、旧浦上山里村の庄屋屋敷のあったところです。明治13年(1880)に浦上教会が聖堂建設のため、買収しました。この石垣は、その後の原爆によって聖堂が倒壊した後、修復工事を経て、現在まで庄屋屋敷の遺構として残っています

 

浦上天主堂 司祭館司祭館 Priest

同じ敷地内にあり、天主堂に隣接する建物です。

 

浦上天主堂 被爆直後の天主堂

被爆直後の天主堂 after the atomic bomb

昭和20年(1945)8月9日、午前11時2分、長崎の浦上上空で原子爆弾が炸裂しました。爆心地から北東に500mの至近距離にあった浦上天主堂は原爆で全壊しました。信徒も約12000人のうちの5分の3ほどに当たる約8500人が犠牲になったといわれています。被爆後も、広島の原爆ドーム同様、保存が検討されましたが、破壊が激しく断念。再建されて、現在に至っています。

 

浦上天主堂 入口

天主堂入口 Main Gate

中央の十字架像は被爆して破損しましたので複製されました。しがし、悲しみの聖母像(左)と聖ヨハネ像(右)は無傷のまま残り、もとあった位置に置かれました。

 

浦上天主堂 尖塔

尖塔 Steeples

最初の天主堂は着工から実に30年後の大正14年(1925)、尖塔が完成したことで竣工しました。そして、2個の鐘楼がつるされました。原爆によって、倒壊した天主堂が再建され、この尖塔にも被爆した鐘が再びつるされました。アンジェラスの鐘として現在も毎日鳴らされています。

 

浦上天主堂 崩れた鐘楼

崩れた鐘楼 Shoro ( Belfry )

Bell Dome of former Urakami Catholic Church which was thrown to this spot by the atomic bomb explosion 重さ約50トン。にもかかわらず、原爆による爆風で約35mも吹き飛ばされました。天主堂の北側の川べりに当時のままで残されています。

 

浦上天主堂 鐘楼

被爆直後の鐘楼 Shoro ( Belfry )

被爆直後の鐘楼の写真です。案内板にあったものを撮影しました。

 

浦上天主堂 崩れた鐘楼

崩れた鐘楼 Shoro ( Belfry )

原爆の威力を現在に伝えています。

 


 

【 被爆まもないころの浦上天主堂】

 

2010年のことですが、メールマガジン【写真で見る日本の歴史】の読者、中山正利様よりご提供いただきました。キャプション付きで貴重な資料を頂戴いたしました。

 

浦上天主堂

◎戦前東洋一を誇った建物も、この地より約1Km程離れた地点に落ちた  原爆のために焼失し一部写真の様な壁が残ったのみでした、(建物下部  の四角い土台石二つが爆風のためずれています) この建物の前に仮の御堂が建てられミサが行われています。 (昭和28年(1953)12月23日撮影)

 

浦上天主堂

◎この像はイタリーカトリック教会より、永井博士に贈られたものです。 (昭和28年(1953)12月23日撮影)

 

データDeta /アクセスAccess

所在地 Address 長崎県長崎市本尾町1-79
交通 JR浦上駅から路面電車、松山町電停から約5分
URL 浦上教会

 

2015/12/03 現在

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