写真で見る日本の歴史
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118-1
天龍寺
大方丈
118-2
天龍寺
書院と曹源池
118-3
天龍寺
曹源池
118-4
天龍寺
多宝殿
京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区
禅宗様式の伽藍のひとつです。隣接する小方丈と区別され、大方丈とよばれています。本尊は釈迦如来像で、天龍寺最古の仏像です。
天龍寺の庭園です。夢窓国師作の池泉回遊式庭園です。
紅葉が美しい庭園。日本初の史跡特別名勝の庭園です。
創建以来、8度の火災に見舞われた天龍寺ですが、この多宝殿は、昭和9年に当時の管長精拙和尚が建立しました。後醍醐天皇の聖廟で、建築様式は、南北朝時代の紫辰殿づくりです。
118-5
天龍寺
法堂
118-6
天龍寺
天龍寺の紅葉2
119-1
歴史人物
021大石内蔵助
119-2
歴史人物
022大石主税
京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 兵庫県赤穂市 兵庫県赤穂市
法堂は、禅宗の七堂伽藍のひとつにあげられます。天龍寺の法堂の天井には加山又造画伯作の雲龍図があります。
天龍寺をはじめとする嵐山周辺は、紅葉の名所です。毎年紅葉のシーズンになると多くの観光客でにぎわいます。天龍寺はその嵐山でも最も紅葉で有名な場所のひとつです。
播磨国赤穂藩家老。赤穂浪士の吉良邸討ち入りのときの首謀者です。内蔵助とは通称で、名を良雄といいます。山鹿素行や伊藤仁斎にそれぞれ軍学や儒学を学びました。主君の浅野内匠頭(浅野長矩)が江戸城の松の廊下で刃傷に及んだ事件によって、赤穂浅野家の断絶が決まり浪人となったあとも、内蔵助は幕府に内匠頭の弟である浅野大学を立てて浅野家最興と刃傷事件の当事者の吉良上野介の処分を求め続けました。その望みが絶たれると主君の敵を討つため、吉良邸に討ち入って仇を討つことを決定しました。吉良邸討ち入りは成功し、見事主君の仇を討ちましたが、その翌年、幕府の命によって切腹しました。
大石内蔵助の嫡男。主税とは通称で本名は、良金といいます。浅野内匠頭の刃傷事件の時は、まだ元服前で松之丞と名乗っていましたが、その後、父と行動を共にして元服し、吉良邸討ち入りのメンバーに加わりました。討ち入りのときは裏門の大将をつとめました。その後は、父らと共に幕府の命によって切腹しました。享年16歳で、最年少の浪士でした。
119-3
歴史人物
023原惣右衛門
119-4
歴史人物
024片岡源吾衛門
119-5
歴史人物
025堀部弥兵衛
120-1
歴史人物
026堀部安兵衛
兵庫県赤穂市 兵庫県赤穂市 兵庫県赤穂市 兵庫県赤穂市
足軽頭。300石扶持で、討ち入りメンバーの中では三番目の禄高です。吉良邸討ち入りメンバーの一人、岡嶋八十右衛門は実弟です。刃傷事件の時は警護留守役で江戸にいました。この時、赤穂への第一陣の急使は刃傷事件を伝え、惣右衛門ら第二陣は内匠頭の切腹を伝えました。
浅野内匠頭切腹の際に最後の対面をした人物です。内匠頭が切腹に向かう時に源五右衛門と無言の別れをしました。赤穂の大石内蔵助の吉良上野介仇討ちの義盟には加わらず、江戸で独自の行動をとって仇討ちの機会をうかがっていましたが、のちに吉田忠左衛門の説得で義盟に参加しました。吉良邸討ち入りのときは表門隊のひとりとして戦いました。
吉良邸討ち入りに参加した赤穂浪士の中では最年長です。高田の馬場の決闘で活躍した中山安兵衛を見込んで婿養子としました。その婿養子の堀部安兵衛も討ち入りに参加しました。安兵衛は表門隊の一員として討ち入りに参加し、槍を持って表門の警戒にあたりました。
越後国新発田藩士、中山弥次右衛門を父に持っていましたが、その後江戸に出て、堀内源太左衛門の道場に入門しました。元禄7年(1694)、菅野六郎左衛門が高田馬場で決闘をした際、だまし討ちにあって多勢に無勢であった中、同門だった安兵衛が助太刀して敵を討ち果たしたという事件(いわゆる高田馬場の決闘)がおこりました。この出来事を知った赤穂藩士、堀部弥兵衛が惚れ込み、婿養子としたのが赤穂藩士になったきっかけです。浅野家の断絶後は、江戸で吉良仇討ちの急進派の中心人物でしたが、その後、大石内蔵助の義盟に加わりました。討ち入りの時は裏門隊に属して戦いました。
120-2
歴史人物
027吉田忠左衛門
120-3
歴史人物
028不破数右衛門
120-4
歴史人物
029大石瀬左衛門
120-5
歴史人物
030寺坂吉右衛門
兵庫県赤穂市 兵庫県赤穂市 兵庫県赤穂市 兵庫県赤穂市
討ち入りには、息子の吉田沢右衛門とともに親子で参加しました。江戸では仇討ちの急進派だった堀部安兵衛の説得にあたる一方で、田口一真と偽り、情報収集にあたって内蔵助に伝えていました。吉良邸討ち入りには裏門隊として参加し、裏門隊大将の大石主税の後見にあたりました。討ち入り後、浪士たちが浅野内匠頭の墓所がある泉岳寺へ引き上げる途中で、幕府の大目付の千石久尚に討ち入りを報告したことでも知られています。
元赤穂藩士で、浅野内匠頭の切腹前から浪人でしたが、吉田忠左衛門のとりなしで仇討ちの義盟に参加しました。討ち入りのときは裏門隊に属して最もめざましい働きをしたといわれています。
浅野内匠頭の刃傷事件を、第一報の急使として原惣右衛門とともに赤穂の大石内蔵助に伝えた人物です。内蔵助の遠戚で、行動をともにする中で、江戸に潜伏して情報収集に努めました。
吉田忠左衛門に仕えていた足軽でした。足軽としては唯一義盟に参加しました。討ち入りに参加したかどうかは定かではありませんが、その前後に一行から離れ、忠左衛門の娘婿の伊藤十郎太夫に仕えた他、各地を転々とし、当時では長寿の部類にはいる83歳で江戸で没しました。
121-1
熊本城

121-2
熊本城
熊本城の石垣
121-3
熊本城
石垣の反り
121-4
熊本城
地図石
熊本県熊本市 熊本県熊本市 熊本県熊本市 熊本県熊本市
慶長6年(1601)から7年がかりで築城されました。豊臣恩顧の家来、加藤清正によります。大阪城、名古屋城と並ぶ日本三名城のひとつです。城内に銀杏を多く植えていたため、別名を銀杏城といいます。天守は大小の二つを組み合わせた連立式です。加藤氏の二代44年の治世の後、細川氏が入城して、明治維新を迎えました。 加藤清正は秀吉のもとで幾多の実戦経験があり、その経験に基づいて熊本城が築かれました。清正が携わった城郭は、立派な石垣が築かれていることが特徴で、熊本城も美しい曲線の高石垣が見られます。坪井川の西方の山々から切り出されて運ばれました。熊本石とよばれる安山岩質の石を使用しています。清正をはじめ、普請奉行の飯田覚兵衛、三宅角左衛門の指導の下、石垣づくりの石工技術者集団、近江の穴太衆が担当してつくりました。 武者返しと呼ばれる石垣の形です。上に行くほど傾斜が急になっています。防御にすぐれた形で、清正が携わった城には多く見られます。清正流ともいわれたつみ方で、実際は近江の石工集団の穴太衆が建築に携わりました。熊本城の石垣はこのように美しく圧倒的で、お城に興味がない人でも十分に堪能できると思います。
ここの石組みは城のほかの部分と異なり、切り石の組み合わせでできています。古くは、日本地図・熊本城下町図・熊本城平面図を表現したものといわれていましたので、現在も地図石とよばれています。今日では数奇屋丸お茶室への参入口の装飾であったと考えられています。
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