写真で見る日本の歴史
 トップページすべての画像すべての画像025
931 件から481-500件を表示 U21 22 23 24 25U
前の20 次の20件
099-7
松山城二之丸史跡庭園
米倉
099-8
松山城二之丸史跡庭園
番所
100-1
歴史人物
016ウィリアム・アダムス
100-2
歴史人物
017ジャックス・スペックス
愛媛県松山市 愛媛県松山市 長崎県平戸市 長崎県平戸市
二之丸北西隅にあった米倉が再建されています。
現在の再建された番所はトイレとして利用されています。トイレとはいえ、当時の外観の雰囲気は分かります。
1564.9.24〜1620.5.12
1564年にイギリス、ジリンガムに生まれました。オランダの東洋探検隊の航海長としてリーフデ号に乗りましたが遭難。天下分け目の戦いといわれた関ヶ原の合戦直後の慶長5年(1600)4月19日、日本(豊後国)に漂着しました。後に、徳川家康の外交顧問になりました。知行地として三浦郡逸見村を与えられたことから、日本名を「三浦按針」と名乗りました。
徳川家康は、外国との貿易港を江戸に程近い相模国浦賀にするつもりでしたが、ジャックス・スペックスが平戸藩や住民の厚意を受けたことによって平戸を離れることを拒んだそうです。これにより、平戸にオランダ商館が設置されました。そして、平戸オランダ商館の初代館長に就任しました。その後は、平戸を拠点とした海外貿易交流に力を尽くしたため、貿易港平戸の発展に大きく寄与した功労者といえます。
100-3
歴史人物
018フランシスコ・ザビエル
100-4
歴史人物
019リチャード・コックス
100-5
歴史人物
020王直
101-1
武蔵塚
宮本武蔵の墓
長崎県平戸市 長崎県平戸市 長崎県平戸市 熊本県熊本市
1506.4.7〜1552.12
ナバラ王国(現在はスペインの一部になっています)のザビエル城主の子として生まれました。パリの聖バルバラ大学に入り、そこでイエズス会のイグナチウス・ロヨラと出会い、共にカトリックを海外に布教するために努力しました。天文18年(1549)に来日し、上陸した鹿児島で布教をはじめ、後に、平戸、山口、京都、大分などを訪れました。平戸をはじめ、彼が立ち寄った場所にはザビエル記念聖堂が建っています。2年3ヶ月の滞在の後、インドのゴアへ帰り、中国での布教のため広東港外の上川島に行った時に46歳で他界しました。
1566〜1624
平戸イギリス商館長として日英貿易に力を尽くしました。彼は、慶長18年(1613)から元和9年(1623)まで平戸に滞在し、その間の1615年にウィリアム・アダムスより贈られた甘藷(かんしょ・サツマイモのこと)を日本で初めて栽培したことでも知られています。この最初の甘藷が植えられた菜園は長崎県の指定史跡に指定されています。
????〜1559.12.25
中国安徽省黄山市に生まれました。生年不詳。明朝の海禁政策の中、海外貿易を行いました。1542年に松浦隆信に招かれて平戸にやってきました。天文12年(1543)の鉄砲伝来にも関わっていたといわれています。倭寇の首領としても有名で、徽王と称して各地で密貿易などを行いましたが、1559年に中国で捕まり、処刑されました。
全国に武蔵塚または宮本武蔵の墓はいくつか存在しますが、武蔵の晩年は、細川忠利に招かれて肥後で過ごしたことからも、ここのお墓に宮本武蔵が葬られたのは有力な説といえるかと思われます。周囲は武蔵塚公園という公園になっています。千葉城(熊本城の隣)の居宅で生涯を閉じた宮本武蔵は、遺言で参勤交代する細川の殿様を見守りたいと、大津街道沿いのこの地に甲冑姿で埋葬されているそうです。(大分と熊本を結ぶ豊後街道のうち、熊本市側を大津街道と呼んでいました)
101-2
武蔵塚
新免武蔵居士石塔
101-3
武蔵塚
晩年の宮本武蔵像
102-1
霊巖洞
宮本武蔵座像
102-2
霊巖洞
雲巖禅寺
熊本県熊本市 熊本県熊本市 熊本県熊本市 熊本県熊本市
武蔵塚にある宮本武蔵のお墓の墓標には「新免武蔵居士石塔」と刻まれています。
天正12年(1584)に播磨国(兵庫県)に生まれました。ただ異説も多く、一説によると天正10年(1582)、美作国(岡山県)生まれとする説も有力です。幼名を弁助と呼んでいました。剣豪として有名で、生涯60回以上もの真剣試合を行いましたが、すべて勝ったといわれています。晩年は肥後国の細川忠利に招かれて軍事政治顧問として仕えました。正保2年(1645)5月19日、62歳で没しました。
宮本武蔵は、父、新免無二斎、母、お正の次男です。この像は勝ち運を呼ぶ武蔵像と呼ばれています。平成15年(2003)のNHK大河ドラマ「武蔵MUSASHI」の放映記念とテレビ放送開始50周年を記念して建てられました。岩戸の里公園にあります。ここからしばらく歩いた先にある雲巌禅寺には武蔵が『五輪の書』を書いたとされる霊巖洞があります。
九州西国第14番札所、曹洞宗の雲巖禅寺。裏手の岩山を削って造られた道沿いには五百羅漢が、そしてその奥には宮本武蔵が『兵法五輪之書』を書いた場所とされる霊巖洞があります。
102-3
霊巖洞
雲巖禅寺本堂
102-4
霊巖洞
五百羅漢
103-1
霊巖洞
霊巖洞入口
103-2
霊巖洞
霊巖洞の碑
熊本県熊本市 熊本県熊本市 熊本県熊本市 熊本県熊本市
雲巖禅寺の本堂です。
安永8年(1779)から25年間にわたって肥後の豪商淵田屋義平によって奉納され、息子の代に完成された五百羅漢です。肥前国の石工、了善が彫ったもので、ひとつひとつ表情が違うとのことです。この奥に霊巌洞があります。
霊巖洞は雲巖禅寺の奥之院、五百羅漢を右手に見ながら歩いた一番奥にあります。
霊巖洞は宮本武蔵が『五輪の書』を書いたとされる場所です。武蔵最晩年の地として、外国にもよく知られているところです。『五輪の書』は、寛永20年(1643)、武蔵60歳の時より書き始め、正保2年(1645)5月19日に死去する直前まで、書き続けたといわれています。
103-3
霊巖洞
霊巖洞
103-4
霊巖洞
岩戸観音
104-1
菅沼合掌造集落
上平村菅沼
104-2
菅沼合掌造集落
合掌の里1
熊本県熊本市 熊本県熊本市 富山県南砺市 富山県南砺市
宮本武蔵が著した『兵法五輪之書』(五輪の書)は、地・水・火・風・空の5巻からなります。「地之巻」では兵法、「水之巻」では剣術、「火之巻」では戦術、「風之巻」では他流派の兵法、「空之巻」では兵法の極意をそれぞれ書いています。
この格子の奥には、岩戸観音が祀られています。武蔵が『五輪の書』を書いた場所とといわれており、腰掛けた石などが残っています。
平成7年12月、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」が世界文化遺産として登録されました。その集落のひとつが、旧東砺波郡上平村(平成16年11月1日に南砺市になりました)の菅沼合掌造り集落です。
青少年旅行村・合掌の里として、体験宿泊施設として利用されています。移築された合掌造り家屋が10棟あり、中が見学できるほか、コテージとしても利用されています。スポーツや自然体験活動ができます。
前の20 次の20件

トップページへ このページの先頭へ
copyright (C) 社会科ちゃん