写真で見る日本の歴史
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伊賀上野城
忍び井戸
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伊賀上野城
川崎克の像
110-7
伊賀上野城
天守閣
111-1
南禅寺
三重県上野市 三重県上野市 三重県上野市 京都府京都市左京区
「大阪城の攻略が不首尾に終わったときは上野城に籠城する」という密命を徳川家康からうけた藤堂高虎は、家臣の西島八兵衛尉之友に命じて城の縄張りとこの井戸を手がけたとのことです。深さ五十間の深井戸で、この井戸からは縦横に抜け穴もつくられました。これが、忍び井戸とよばれるゆえんです。秘密を守るために小天守に忍者を常駐させて、井戸の監視に当たり、藩士でさえ覗くことを許されませんでした。
慶長17年(1612)に完成直前だった天守閣は台風によって倒壊し、竣工をみることなく明治維新を迎えました。昭和初期の政治家で地元出身だった川崎克氏は市民に協力を求め、さらに自分自身もこの天守の復興を夢見て古美術品などの私財を投じて復興資金を調達しました。昭和10年(1935)に、ついにこの復興天守が完成しました。この像は、天守の最上階にあったものです。
昭和10年(1935)再建の天守閣です。再建された天守閣のうちでは割と早い時期にあたります。
京都五山とは天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の五つを指します。南禅寺はこの五山の上位「五山之上」に格付けされています。南禅寺の中には水路閣とよばれる水道橋があります(写真)。お寺とは関係ありませんが疎水事業の一環として建築された建築で京都でも人気が高いところです。
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南禅寺
勅使門
111-3
南禅寺
三門
111-4
南禅寺
この門を・・・
111-5
南禅寺
三門から望む
京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区
南禅寺の正門ですが、特別な人しか出入りできない門です。当然、現在は写真のように囲いがあって、出入りできません。重要文化財。
南禅寺の三門は勅使門と法堂とをつなぐ間にあります。他の寺院の三門と比べても大きく、高さは約22mもありmす。現在の門は藤堂高虎が寛永5年(1628)に大坂夏の陣の戦死者を弔うために再建されました。歌舞伎「楼門五三桐」で石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と見得を切った所として有名です。実際、三門は登ることができ、絶景を見ることができます。
「この門を入れば涼風おのづから」 森永湛堂老師(1900〜1975)の句碑です。いうまでもなく、この門とは三門のことをさします。
三門から法堂を見た景色です。
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南禅寺
法堂
112-1
南禅寺
112-2
南禅寺
方丈及び庭園
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南禅寺
硯石
京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区
禅宗寺院に見られる七堂伽藍のひとつ、法堂(はっとう)は寺院の中心的な建物です。豊臣秀頼が寄進してつくられましたが、明治28年に焼失しました。現在の法堂は明治42年に再建されたものです。
南禅寺は正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺といいます。亀山天皇が文永元年(1264)に離宮禅林寺殿を造ったのが前身です。その後、法皇となって、正応4年(1191)に禅寺としたのが始まりです。歴史上、五山之上という最高の寺格に列せられました。
大方丈(写真右の建物)はこけら葺きの建物です。豊臣秀吉が建造寄進した御所の清涼殿を慶長16年(1611)に後陽成天皇が移築したものとされています。国宝に指定されています。また、方丈の前庭は「虎の児渡し」と呼ばれています。禅院式枯山水庭園で、築庭の名人の小堀遠州が慶長年間に手がけた庭です。
原石は岐阜県大垣市赤坂町の金生山で採掘された紅縞とよばれる大理石の一種とのことです。この紅縞の原石はすでに掘りつくされて現存しない大変貴重なものだそうです。明治39年、矢橋亮吉氏が寄贈と石の裏に明記されています。
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南禅寺
南禅院
113-1
南禅寺
水路閣1
113-2
南禅寺
水路閣2
113-3
南禅寺
水路閣3
京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区
水路閣をくぐった奥、南禅院はもとは亀山天皇の離宮禅林寺殿の上の宮遺跡で南禅寺発祥の地です。
明治維新後の廃仏毀釈の際に、境内に建てられた建築物です。ローマの水道橋を思わせるような赤レンガ造りの水路です。粟田口とよばれた交通の要所にあり、琵琶湖岸や山科への玄関口であったため、琵琶湖疏水はこの南禅寺を通って京都市内に流れています。
水路閣をくぐると階段があって、水道橋の上に通じています。この周辺が南禅寺の前身となった南禅寺発祥の地、離宮禅林寺殿の「上の宮」遺跡です。ここは、古い歴史と格式を持つ南禅寺の伽藍と近代の建築である水路閣は見事に融合して、京都でも有数の美しい景観が楽しめる所となっています。
水路閣の上側。手前から奥に流れています。水源が琵琶湖だけあって水量はいつ来ても豊富です。危険なため柵に阻まれています。
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南禅寺
鐘楼
113-5
南禅寺
ゆどうふ
113-6
南禅寺
金地院
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出島オランダ商館跡
出島
京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 京都府京都市左京区 長崎県長崎市
元和9年(1623)の再建の鐘楼です。水路閣の脇にありました。 南禅寺境内に店舗を構える湯豆腐のお店です。
金地院はもとは室町幕府第4代将軍、足利義持の帰依をうけて、京都北山に創建されましたが、慶長10年(1605)にこの地にうつされて南禅寺の塔頭のひとつになりました。移したのは以心崇伝和尚(円照本光国師)という人で、天海僧正(明智光秀と同一人物との伝説もある)とともに徳川家康に従い、江戸幕府の基礎を確立した、金地院崇伝その人です。本堂は伏見城の遺構と伝えられ、襖絵は狩野探幽、尚信の作。特別名勝の庭園は、寛永9年(1632)完成で、有名な小堀遠州によるものです。
江戸時代、鎖国政策で長崎に造られた人工の島。初めはポルトガル人、後にオランダ人の居留地となりました。広さは、約1.3ヘクタールです。現在は埋め立てられましたが、旧状を取り戻そうとする取り組みがなされており、将来的には、出島の全貌が復元されることになるとの事です。寛永13年(1636)に築造されました。それ以来、安政6年(1859)まで鎖国時代の日本において、唯一西洋に開かれた窓口として大きな役割を果たしてきました。
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