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  • 1700から1681-1700件を表示
  • 292-5平城宮最大の柱

    【平城宮跡2】大極殿を囲む築地廻廊の南正面にあった門の東側にある柱に使われたものです。昭和47年(1972)の発掘調査のときに出土したものです。コウヤマキで直径75cm、長さは2.8mです。四角い穴は柱が沈んだり傾いたりしないように横木をさすために造られた穴です。これだけの太さの柱を深く埋めていることから、高い楼のような建物であったと推定されています。

    (奈良県奈良市)

  • 292-6丸形の井戸

    【平城宮跡2】平城宮跡の役所跡付近にあった井戸の遺構です。

    (奈良県奈良市)

  • 292-7四角形の井戸

    【平城宮跡2】この井戸跡も役所跡にあったものです。同じ場所で角型と丸型の井戸が見られます。

    (奈良県奈良市)

  • 293-1遺構展示館内部

    【平城宮跡2】平城宮跡にある「遺構展示館」の入館は無料です。発掘された遺構がそのままの状態で展示されています。開館時間は9時~16時30分(入館は16時まで)、休館日は月曜(月曜日が祝・休日の場合は翌日)と年末年始です。

    (奈良県奈良市)

  • 293-2露出遺構全景

    【平城宮跡2】表面の土を50~70cmほど掘ると奈良時代の地層になります。そこには、このように掘立柱の跡があり、そこから建物のおおよその規模や形が分かるようになっています。規則的に配列されているのが分かります。

    (奈良県奈良市)

  • 293-3掘立柱柱穴跡

    【平城宮跡2】このようにたくさんの柱穴があるのは、ここにあった建物が何度も建て替えられたことを物語っています。柱穴の重なり方から建物の前後関係が判断できます。これに周囲の建物との位置関係を考えあわせて建物の時期や形状を特定していきます。

    (奈良県奈良市)

  • 293-4重なり合った柱穴

    【平城宮跡2】これらの柱穴遺構だけでなく、一緒に出土した土器や瓦などからも建物の時期が推定できます。このように柱穴が重なっているということは何らかの理由で建て替えられたことを証明するものです。実際、4時期の建物があったことが分かっていて、それぞれ730年、750年、760年、770年と考えられています。

    (奈良県奈良市)

  • 293-5磚積基壇建物跡

    【平城宮跡2】磚積みとはレンガ積みということらしいです。ここでは、建物遺構の北半分を発掘したままの状態で展示しています。建物の柱穴と軒先からの雨垂れを受ける溝があります。

    (奈良県奈良市)

  • 293-6平城宮跡空撮

    【平城宮跡2】平城京は右京と左京のほか、外京と北辺をもつ不定形な形をしていました。完全な長方形だった長岡京や平安京との違いのひとつです。そのため、平城宮部分もそれに似た形をしています。遺構展示館には、そのことが分かるように空撮された平城宮の写真が展示されていました。

    (奈良県奈良市)

  • 293-7大極殿

    【平城宮跡2】整備された大極殿の写真が展示されていました。第一次大極殿は平城遷都1300年に合わせて、平成22年(2010)に復元されました。

    (奈良県奈良市)

  • 【国宝建築9】

    294-1興福寺五重塔

    【国宝建築9】初層からずっと大きさが変わらなず、すっきりとした印象を受けます。法隆寺の五重塔などは初層から段々と逓減しているので、対照的な感じがします。天平2年(730)に興福寺を創建した藤原不比等の娘でらい聖武天皇の后である光明子が建てたのが始まりです。その後、五度の罹災を経て、現在の建物は応永33年(1526)に再建されたものです。明治時代の廃仏毀釈の際に50円で売りに出され、危うく買い手によって「薪」にされる運命にあったそうですが、それら解体の危機を脱して現在に至っています。

    (奈良県奈良市)

  • 294-2金剛峯寺不動堂

    【国宝建築9】言い伝えによれば、建久8年(1197)に鳥羽天皇の皇女院のお願いにより行勝上人がこのお堂を建てたといわれています。檜皮葺の屋根が折れ曲がっていて特徴的です。この特徴的な屋根の形は「すがる破風」といわれています。金剛峯寺の中で最古の建築物であるこのお堂は、平安期に女性が特に信仰したといわれる不動明王を祭っています。

    (和歌山県伊都郡高野町)

  • 294-3宇治上神社拝殿

    【国宝建築9】日本最古の神社建築といわれる宇治上神社の本殿の手前にあります。鎌倉時代初期の建築です。切妻造の両妻側に庇を付けているので入母屋造に見えます。また、金剛峯寺不動堂と同様、庇部分の屋根が本屋根にぶら下がる(すがる)ような形でくっついているので、「縋(すがる)破風」という珍しい形が見られます。

    (京都府宇治市)

  • 294-4千本釈迦堂

    【国宝建築9】正式名を「大報恩寺本堂」といいますが、一般的には「千本釈迦堂」といわれています。このお寺は通称を「おかめの寺」といいます。おかめは本堂を建築した時の大工の棟梁の妻だったといわれている人物です。堂内にはこの「おかめ」の人形が多数展示されています。このお堂は応仁の乱のときに西軍の陣地があったといわれる西陣からほど近いところにありますが、兵火によっても奇跡的に焼失をまぬかれて現存しています。

    (京都市上京区)

  • 294-5法隆寺東院伝法堂

    【国宝建築9】聖武天皇の夫人、橘古那可智(たちばなのこなかち)の住居だったといわれている建物です。根拠は、まず「東院資材帳」の中の彼女による奉納品に「瓦葺講堂一間」と記述があることです。その時のお堂がこの伝法堂だといわれています。また、当時の仏堂が入母屋造か寄棟造で造られていたのに対し、切妻造で造られていることも理由の一つです。

    (奈良県生駒郡斑鳩町)

  • 【京都霊山護国神社】

    295-1拝殿

    【京都霊山護国神社】坂本龍馬など幕末の志士たちを祭るために明治元年(1868)に創建されました。昭和14年(1939)に京都霊山護国神社と改称(一時、京都神社と呼ばれていました)され、日清・日露戦争や太平洋戦争などで戦死した人たちを含め、約73000柱が祭神となっています。

    (京都市東山区)

  • 295-2維新の道

    【京都霊山護国神社】東大路通りから、この京都霊山護国神社までの坂道は「維新の道」と呼ばれています。「ねねの道」「哲学の道」「きぬかけの道」等々、京都には様々な特色をもった魅力的な「道」が多く存在します。

    (京都市東山区)

  • 295-3坂本龍馬・中岡慎太郎の墓

    【京都霊山護国神社】近江屋で暗殺された坂本龍馬と中岡慎太郎の墓です。この事件があったのは、慶応3年11月15日(1867年12月10日)です。向かって左が坂本龍馬、右側が中岡慎太郎の墓標になります。

    (京都市東山区)

  • 295-4坂本龍馬・中岡慎太郎の像

    【京都霊山護国神社】坂本龍馬と中岡慎太郎の像です。立ちあがっている方が龍馬になります。この像はお墓の脇にあります。これと同様のものが円山公園にもありますが、そちらの方はこの像よりも大きいです。

    (京都市東山区)

  • 295-5特操の碑

    【京都霊山護国神社】昭和18年(1943)の10月に、2500人以上の若者が陸軍特別操縦見習士官となり、戦闘に参加しました。その結果、若くして多くの命が失われました。この「特操の碑」は彼らを祈念するために昭和46年(1971)に建立されました。

    (京都市東山区)

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