トップ > すべての画像 > a032

  • 1700から621-640件を表示
  • 125-2鐘楼

    【相国寺】天保14年(1843)の建立です。和様と唐様が折衷した造りになっています。地面と接する部分に隙間があるのが特徴です。写真からも分かるかと思います。洪音楼。

    (京都府京都市上京区)

  • 125-3経蔵

    【相国寺】万延元年(1860)の建立です。高麗版一切経が収められています。

    (京都府京都市上京区)

  • 125-4浴室

    【相国寺】浴室は禅宗寺院の七堂伽藍のひとつです。相国寺の現存する浴室の建物は慶長元年(1597)の建立です。特に、将軍及び皇室の浴室は宣明(せんみょう)と呼ばれており、室町幕府第三代将軍、足利義満が創建したこの相国寺の浴室も宣明と呼ばれています。

    (京都府京都市上京区)

  • 125-5後水尾帝歯髪塚

    【相国寺】大塔の跡地です。後水尾上皇が承応2年(1653)に焼失した大塔を再建しました。上皇が出家落髪した時に心柱に髪と歯を収めましたが、天明8年(1788)に大塔が焼失したため、その跡地に塚が建てられました。

    (京都府京都市上京区)

  • 【浦上天主堂】

    126-1浦上天主堂

    【浦上天主堂】明治13年(1880)、旧浦上村庄屋屋敷があった浦上の丘に最初の天主堂が建設されました。大正3年(1914)完成の天主堂は昭和20年(1945)に原爆によって破壊焼失。戦後再建された天主堂は、昭和55年(1980)に当時のローマ法王、ヨハネパウロ2世の来日にあわせて改築され、全面赤煉瓦造りになりました。

    (長崎県長崎市)

  • 126-2天主堂の石垣

    【浦上天主堂】浦上天主堂がある浦上の小高い丘は、旧浦上山里村の庄屋屋敷のあったところです。明治13年(1880)に浦上教会が聖堂建設のため、買収しました。この石垣は、その後の原爆によって聖堂が倒壊した後、修復工事を経て、現在まで庄屋屋敷の遺構として残っています。

    (長崎県長崎市)

  • 126-3司祭館

    【浦上天主堂】同じ敷地内にあり、天主堂に隣接する建物です。

    (長崎県長崎市)

  • 126-4全景

    【浦上天主堂】最初の仮天主堂が建設された後、フランス人の当時の主任司祭フレノ神父が石と煉瓦造りのロマネスク様式の聖堂を設計、監督し、信徒たちの労力奉仕や献金によって新聖堂が建設されました。途中、資金難やフレノ神父が過労に倒れたこともあり、屋根を木造瓦葺に変更して大正3年(1914)に一応の完成をみました(双塔の完成はさらに11年後)。床面積は352坪で当時東洋一だったとの事です。被爆倒壊後、現在の天主堂が509坪の面積を誇る大聖堂として再建されました。さらに昭和55年(1980)にローマ法王、ヨハネパウロ2世の訪問に併せて、外観を赤煉瓦造、内部を美しいステンドグラスに飾るなどの改築を行いました。

    (長崎県長崎市)

  • 126-5被爆直後の天主堂

    【浦上天主堂】昭和20年(1945)8月9日、午前11時2分、長崎の浦上上空で原子爆弾が炸裂しました。爆心地から北東に500mの至近距離にあった浦上天主堂は原爆で全壊しました。信徒も約12000人のうちの5分の3ほどに当たる約8500人が犠牲になったといわれています。被爆後も、広島の原爆ドーム同様、保存が検討されましたが、破壊が激しく断念。再建されて、現在に至っています。

    (長崎県長崎市)

  • 126-6天主堂入口

    【浦上天主堂】中央の十字架像は被爆して破損しましたので複製されました。しがし、悲しみの聖母像(左)と聖ヨハネ像(右)は無傷のまま残り、もとあった位置に置かれました。

    (長崎県長崎市)

  • 127-1尖塔

    【浦上天主堂】最初の天主堂は着工から実に30年後の大正14年(1925)、尖塔が完成したことで竣工しました。そして、2個の鐘楼がつるされました。原爆によって、倒壊した天主堂が再建され、この尖塔にも被爆した鐘が再びつるされました。アンジェラスの鐘として現在も毎日鳴らされています。

    (長崎県長崎市)

  • 127-2被爆した石像1

    【浦上天主堂】昭和20年(1945)8月9日、午前11時2分。長崎上空で炸裂した原子爆弾によって、爆心地から500mの至近距離にあった浦上天主堂は破壊されました。現在、天主堂の前に置かれてあるこの像は、その時に被爆したものです。

    (長崎県長崎市)

  • 127-3被爆した石像2

    【浦上天主堂】禁教令が出されてから、浦上のキリシタンは四度の検挙、迫害を受けました。これらの事件を「崩れ」と呼んでいます。(浦上一番崩れ:寛政2年(1790)・浦上二番崩れ:天保13年(1842)・浦上三番崩れ:安政3年(1856)・浦上四番崩れ:明治元年(1868))長崎への原爆投下による多くの信徒たちの死は、これに続くものとして「浦上五番崩れ」ともいわれています。これらの像は、それを現在に伝える歴史の証人といえるでしょう。

    (長崎県長崎市)

  • 127-4崩れた鐘楼

    【浦上天主堂】重さ約50トン。にもかかわらず、原爆による爆風で約35mも吹き飛ばされました。天主堂の北側の川べりに当時のままで残されています。

    (長崎県長崎市)

  • 127-5被爆直後の鐘楼

    【浦上天主堂】被爆直後の鐘楼の写真です。案内板にあったものを撮影しました。

    (長崎県長崎市)

  • 127-6天主堂と崩れた鐘楼

    【浦上天主堂】原爆の威力を現在に伝えています。

    (長崎県長崎市)

  • 【国宝建築4】

    128-1大浦天主堂

    【国宝建築4】日本最古の教会建築にして、建築年代が最も新しい国宝建築です。パリ外国宣教会フューレ神父は、同宣教会プチジャン神父の協力を得て建設を始めました。この時、熊本県天草出身の大工、小山秀が建設を行いました。元治元年(1864)「26聖殉教者天主堂」と命名されたこの大浦天主堂が完成しました。

    (長崎県長崎市)

  • 128-2豊国神社唐門

    【国宝建築4】伏見城の移築とされています。南禅寺の塔頭の金地院に最初移築されましたが、その後、東山の豊国神社に移築されました。隣には、豊臣氏のお寺である方広寺があります。本願寺・大徳寺とともに京都の三唐門のひとつに数えられています。

    (京都府京都市東山区)

  • 128-3東大寺金堂

    【国宝建築4】金堂とはそのお寺の本尊が安置されている場所です。従ってここには「奈良の大仏」がありますので大仏殿とよばれています。大仏造立の詔を発した8世紀の聖武天皇の時代から数えて三代目の大仏殿です。最初の囎ィは治承4年(1180)に、次に再建された建物は永禄10年(1567)にそれぞれ兵火によって焼失しました。現在の建物は江戸時代の宝永6年(1709)に公慶上人によって再建されました。世界最大の木造建築物として名高いですが、それでも創建時の初代からすると三分の二の大きさに縮小されているとの事です。明治39年(1906)から6年かけて、更に昭和47年(1972)から8年かけてそれぞれ大修理が行なわれました。

    (奈良県奈良市)

  • 128-4薬師寺東院堂

    【国宝建築4】回廊の外側にある建物で見落としがちですが、この建物も国宝です。養老5年(721)に吉備内親王が母元明天皇の一周忌にあたって創建したと伝えられています。吉備内親王は、あの長屋王の后だった人物でもあります。創建時の建物は焼失し、現在の建物が弘安8年(1285)に再建されました。本尊は、金堂の薬師如来像とともに、白鳳文化の代表ともいえる聖観音菩薩像です。

    (奈良県奈良市)

  • < 前の20件 次の20件 >

▲top