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  • 121-5首掛石

    【熊本城】天正17年(1589)に熊本の天草で仏木坂の戦いがおこりました。その時、加藤清正や小西行長らと敵対した武将に木山城主の木山弾正がいました。弾正は、豪勇をもってきこえた武将で、戦いの時に単騎で敵中奥深くに入り、清正の首を取る寸前までいきましたが、あえなく討死しました。この弾正の遺児に怪力で名の知れた横手の五郎なる人物がいましたが、この五郎は父の仇を取ろうと熊本城の築城の際、人夫にまぎれてその機会をうかがっていました。その時、数人がかりでも運べなかった石を首に掛けて軽々と運んだのがこの石です。ある日、清正を襲った五郎でしたが、家来たちに取り押さえられ、古井戸に投げ込まれてしまいました。清正の命令で石が井戸の中に次々に投げ込まれましたが、怪力の五郎は片手で受け止めるので、今度は砂が入れられて、ついに生き埋めになって死んだと伝えられています。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 121-6二様の石垣

    【熊本城】右手は築城当初の加藤時代のもので、後に細川氏の時代に増築されたのが左手です。時代が異なる二つの石垣が同時に見られます。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 122-1天守

    【熊本城】天守閣は、本丸中心に位置し、大小の天守閣からなる連立式です。明治10年(1877)に起こった西南戦争の際、西郷隆盛率いる薩摩軍を迎え撃つため籠城した際に、失火によって焼失しました。その2日後から始まった戦闘では、50日あまりも続いた攻撃を退け、難攻不落の城としての真価を発揮しました。現在の天守は昭和35年(1960)に市民の寄付などを元に、外観は当時のままで、鉄筋コンクリートづくりで再建されたものです。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 122-2小天守閣

    【熊本城】高さは約19m。ニ層四階建てで望楼をのせた形をしています。現在は一般には公開されていません。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 122-3大天守閣

    【熊本城】高さ約30m、内部は資料館になっています。三層六階地下一階建てで、小天守閣と共に昭和35年(1960)に再建、平成の大改修を経て現在に至っています。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 122-4宇土櫓

    【熊本城】小天守閣や大天守閣と違って破風が直線的であり、外観などの造りが違うことから、小西行長が築城した宇土城の天守閣を移築したものと考えられ、宇土櫓といわれていました。しかし、解体修理時の調査の時に、熊本城内で創建された櫓ということが分かりました。櫓とはいえ、外観は三層、内部は五階建てで地下もあります。このようなことから、第三の天守の役割を果たしています。天守群の建物と違い、江戸時代から残っており、重要文化財に指定されています。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 122-5 数寄屋丸の多聞櫓

    【熊本城】数奇屋丸とは、秀吉築城の大阪城の「山里丸」の流れを引くもので、熊本城における文化的遊興の空間であったと考えられています。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 122-6 数寄屋丸二階御広間

    【熊本城】秀吉築城の大阪城の山里丸と同じ機能をもつ郭です。熊本城における文化的遊興の空間であったといわれています。茶会、能、連歌などの会が催され、この大広間もそれらの用途の一部に使われていたと考えられています。平成元年(1989)9月に復元されました。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 123-1宇土櫓正面

    【熊本城】3層5階建て、明治10年(1877)の西南戦争の際、失火により、本丸周辺の建物はすべて焼けましたが、この宇土櫓は風上にあったため、焼失を免れました。中は公開されており、最上階からの天守閣の眺めは良好です。直線的な破風など外観が、天守閣と異なっているので、小西行長が築城した宇土城の天守閣を移築したものと考えられていましたので、宇土櫓と呼ばれていました。国指定重要文化財。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 123-2 熊本城天守閣

    【熊本城】石垣よりもせり出した三層六階地下一階の天守閣です。丸太を並べて床板を敷いています。床板をはずすと全面が石落としになります。地下には河原石が備蓄されていました。また、井戸などもあり、籠城にも想定されていました。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 123-3天守閣入口

    【熊本城】天守閣への入口。右は加藤家紋所の「蛇の目紋」です。加藤家は清正、忠広の2代44年間しか続きませんでした。加藤家の改易後は54万石で豊前小倉から細川忠利が入城しました。家紋は左、「九曜の紋」です。忠利の父は明智光秀の娘、ガラシャを夫人に持つ細川忠興です。忠利は、島原の乱でも活躍しました。また、剣豪の宮本武蔵を招いたことでも知られています。細川氏は明治4年(1871)の廃藩置県まで、11代239年間続きました。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 123-4 熊本城の模型

    【熊本城】城郭の模型です。天守閣内の資料館にありました。日本三名城の熊本城は、城郭の広さが約98万平方メートル、周囲は5.3キロメートルもありました。その中には大小天守の他、櫓49、櫓門18、城門29を数えました。明治10年(1877)の西南戦争の際に城内から起こった失火によってほとんどが焼失しましたが、宇土櫓ほか12棟が焼失を免れ、国指定重要文化財となっています。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 123-5 天守閣の模型

    【熊本城】熊本城天守閣の木組みの模型です。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 123-6大天守からの宇土櫓

    【熊本城】大天守閣最上階からの宇土櫓です。熊本城は天守以外にもこのような壮大な櫓が多くあります。石垣の美とともに、見どころの多いお城だといえるでしょう。

    (熊本県熊本市中央区)

  • 【相国寺】

    124-1 総門

    【相国寺】相国寺の正門です。大本山相國寺と書かれてあります。相国寺は、正式には萬年山相國承天禅寺といいます。京都五山の第二位で、室町幕府三代将軍の足利義満が、後小松天皇の勅命を受けて建立しました。開山は夢窓国師です。かつては広大な寺域をほこっており、隣接する同志社大学ももとは相国寺の一部だったそうです。

    (京都府京都市上京区)

  • 124-2 勅使門

    【相国寺】特別な時に使用される門です。一般の人がくぐることはできません。禅宗寺院の七堂伽藍のひとつです。

    (京都府京都市上京区)

  • 124-3三門跡

    【相国寺】三門は、天明8年(1788)の大火の後は、再建されずに現在に至っています。礎石だけが残されています。

    (京都府京都市上京区)

  • 124-4法堂

    【相国寺】現在の相国寺の中心的な建物のひとつです。秀吉と茶々(淀君)の子の豊臣秀頼が寄進によって造られました。慶長10年(1605)の建築で、現存する法堂としては、日本最古のものです。無畏堂ともいいます。重要文化財。

    (京都府京都市上京区)

  • 124-5林光院

    【相国寺】相国寺は、金閣寺などの山外に3ヶ寺、山内には12ヶ寺の塔頭があります。この林光院も相国寺の山内塔頭のひとつです。

    (京都府京都市上京区)

  • 125-1庫裏

    【相国寺】香積院。切妻妻入の建物です。禅宗寺院の庫裏に共通した造りになっています。庫裏とは住職の生活場所のことです。

    (京都府京都市上京区)

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