写真で見る日本の歴史
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旧大野木場小学校
背後には平成新山
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如己堂
入口
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如己堂
表示
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如己堂
道路側からの如己堂
長崎県南島原市 長崎県長崎市 長崎県長崎市 長崎県長崎市
平成3年(1991)の雲仙普賢岳の噴火によってできた溶岩ドームは、その後も成長を続け、崩落し火砕流となってふもとの町を襲いました。現在は終息宣言が出され、落ち着きましたが、この旧大野木場小学校からは現在は平成新山とよばれている溶岩ドームがはっきりと見ることができます。
昭和20年(1945)8月9日午前11時02分、長崎に投下された原子爆弾で被爆した、当時長崎医科大学の助教授だった永井隆博士の住まい。「如己堂」と名付けられた二畳敷のこの住まいで、白血病でなくなるまで原爆に関わる医学的研究と反戦平和を訴える多くの著作をのこしました。
如己堂の入口。如己堂は、病床にあった永井隆博士のため、昭和23年(1948)に近隣の人たちが博士に贈った小さな家です。この家で昭和26年(1951)5月1日に亡くなるまで二人の子供と共に過ごしました。聖書の「己の如く人を愛せよ」の言葉から、「如己堂」と名づけられました。 二畳一間の小さな家。家を建ててくれた人の心を忘れず自分もこの愛に生きようとする心から「如己堂」と名付けられました。昭和23年(1948)春完成。
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如己堂
内部
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如己堂
歌碑
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如己堂
全景
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如己堂
長崎永井隆記念館
長崎県長崎市 長崎県長崎市 長崎県長崎市 長崎県長崎市
部屋の中は正面の窓からのぞくことができます。正面に永井隆博士のデスマスク。脇に聖母マリア像。畳2畳分の部屋は3人が暮らすには大変狭いのが分かります。 「玉の緒の命の限り吾はゆく寂かなる真理探求の道」科学者としての不屈の研究心とカトリック信徒としての厚い信仰心もあって、病床にありながら十数冊もの著書を執筆しました。(案内板による)
写真左の小さな建物が「如己堂」。右側の鉄筋コンクリート造りの建物が平成12年(2000)に開館した「長崎永井隆記念館」です。
永井隆博士がつくった子どもたちのための読書室「うちらの本箱」が前身です。博士の死後、その遺志を継ぎ、ブラジル在留邦人の寄付金と長崎市費で昭和27年(1952)12月25日に永井図書館が建設されました。その後、昭和47年(1972)4月の「永井記念館」発足を経て、平成12年(2000)4月に、「長崎永井隆記念館」となり、現在に至っています。1Fが展示室、2Fが図書館となっています。
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如己堂
永井隆博士像
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如己堂
永井隆博士
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如己堂
帳方屋敷跡
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二条城
南側外堀
長崎県長崎市 長崎県長崎市 長崎県長崎市 京都府京都市中京区
34歳のころがモデルだそうです。白衣を着ています。この胸像は、長崎市内の彫刻家、中田秀和氏が島根県三刀屋町(博士の故郷)より依頼を受けてつくったものの複製です。長崎市に寄贈された高さ75センチの銅像です。 昭和21年の撮影との事。原爆で失った妻のために喪に服している姿なのだそうです。 慶長18年(1614)の徳川家康の禁教令以降、250年も続いた迫害の時代、潜伏キリシタンたちは、指導者の頭である「帳方」を中心に信仰を続けました。如己堂の辺りは、この「帳方」の屋敷があったところとされています。初代の帳方は孫右衛門といい、以降、その子孫が7代帳方を継承しました。永井隆博士の妻、緑さんは、7代目帳方吉蔵の子孫にあたるそうです。
永禄12年(1569)に旧二条城の築城が開始されたという記録がありますが、本格的に城郭が整えられたのは慶長8年(1603)のことです。築城したのは徳川家康で、京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所として築かれました。写真は、地下鉄東西線二条城駅入口に近い、東南角から南側の外堀を望んだものです。
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二条城
東南隅櫓
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二条城
東大手門
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二条城
番所
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二条城
築地塀
京都府京都市中京区 京都府京都市中京区 京都府京都市中京区 京都府京都市中京区
東南隅櫓。もともと防御のために造られたお城ではなく、全国のお城に見られるような建物は少ないのですが、この東南隅櫓はその中でも数少ない城郭建築のひとつといえそうです。寛永年間の建築で、四方にあった隅櫓のうち、天明の大火での焼失を免れた櫓のひとつです。国指定重要文化財。 両端の石垣の上から渡り廊下を設け、その下を門とした櫓門形式の建物です。本瓦葺入母屋造り。現在の二条城のメインゲートとなっています。この門の外側右手に券売機があり、そこで入城料600円(大人)を支払って入ります。閉館は午後5時と割と早めです。国指定重要文化財。 正面十間、奥行き三間。将軍が不在の時に城の管理をするために江戸から派遣された大番組の武士たちのことを二条在番と呼んでいました。二組(一組五十人)が、毎年四月に交替し、城内の警備にあたりました。この番所は、そうした武士たちの詰所のひとつとしてあった建物です。現存する数少ない門番所の遺構のひとつです。東大手門をくぐったすぐ右手にあります。 築地塀といいますが、俗に「筋塀」ともいいます。柱を立て、板を芯として泥で塗ってあります。元は、泥をつき固めた土手のようなものだったということです。塀にある横線は、定規筋といい、御所や門跡寺院の塀など格式の高い塀につけられた模様で、中でも二条城にあるような五線は最上の格式とされています。
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二条城
南門
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二条城
唐門
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二条城
二の丸御殿
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二条城
二の丸御殿大広間
京都府京都市中京区 京都府京都市中京区 京都府京都市中京区 京都府京都市中京区
大正4年(1915)11月10日の大正天皇の「御大典」に合わせて新たにつくられました。「御大典」とは、天皇の即位儀礼のことで、「即位式」と「大嘗祭(だいじょうさい)」が行われます。この門の外側には現在橋がなく、くぐっても堀にさえぎられています。 切妻造、檜皮葺の四脚門で門の上には唐破風があります。この門をくぐったところに、国宝の二の丸御殿があります。 単に「二の丸御殿」といっても、その建物は大変大きく、建物面積3300平方メートル、部屋数33、800畳敷きという立派なものです。写真は、入口にあたる「車寄せ」とよばれている部分で、奥には、「遠侍(とおさむらい)」、「式台」、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」、「白書院」の6棟が連なっています。内部は狩野派の人たちによる豪華絢爛は襖絵などで飾られており、桃山文化の粋をうかがえます。内部の廊下は有名な「うぐいす張り」になっており、歩くと「キュッキュッ」と音がします。 大広間の部分を外側から撮影したものです(内部は撮影禁止)。四の間までありますが、一の間と二の間はそれぞれ48畳、44畳あり、非常に広い部屋となっています。この部屋で慶応3年(1867)10月、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を発表しました。
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