写真で見る日本の歴史
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一本柱鳥居・長崎山王神社
坂本町民原子爆弾殉難の碑
219-7
一本柱鳥居・長崎山王神社
浦上街道の碑
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一本柱鳥居・長崎山王神社
稲佐山を望む
220-1
廬山寺
入口
長崎県長崎市 長崎県長崎市 長崎県長崎市 京都府京都市上京区
昭和27年(1952)の建立。被爆倒壊した山王神社の鳥居の足柱を譲り受けて坂本町の町民たちが手作りで制作しました。毎年、8月9日に慰霊祭が行われています。碑は、平成18年(2006)の台風で折れたクスノキの大枝が覆いかぶさって倒れましたが、住民の募金で復元されました。 ここ山王神社付近には、旧浦上街道が通っていました。江戸時代の中頃に、日見峠を越える長崎街道が整備されるまではこの浦上街道がメインルートでした。日本二十六聖人やオランダ商館医ケンペルなどもこの道を通ったということです。 山王神社から見た高さ333mの稲佐山です。長崎の市街地からだったらどこからでも見ることができる長崎市を代表する山です。
京都御所の東にあります。この付近に紫式部の邸宅があったと推定されており、紫式部の著作「源氏物語」にちなんで、本堂前庭は「源氏の庭」と呼ばれています。圓浄宗本山、洛陽三十三所観音霊場第三十二番札所、京都七福神三番(毘沙門天)。
220-2
廬山寺
元三大師堂
220-3
廬山寺
本堂入口
220-4
廬山寺
慶光天皇廬山寺陵
220-5
廬山寺
紫式部邸宅址の碑
京都府京都市上京区 京都府京都市上京区 京都府京都市上京区 京都府京都市上京区
廬山寺は、天慶元年(938)に、慈恵大師良源が船岡山南麓に開いた與願金剛院がその前身です。良源は元三大師ともよばれており、ここはその開山、良源を祭るお堂です。正面三間、奥行四間、入母屋造、本瓦葺。天保6年(1835)の再建です。元三大師が宮中で鬼を追い払ったという言い伝えがあることから、毎年二月の節分には、「追儺式鬼法楽(通称、鬼踊り)」という行事が行われています。 本堂には、恵心僧都の作と伝えられている阿弥陀三尊像が安置されています。廬山寺は「洛中の叡山」といわれ、帰依する人々も多く、焼失の度に再建勧進で多くの資金が集まったということです。現在の堂宇も、宝永5年(1569)および天明8年(1788)の京都の大火での焼失後、寛政6年(1794)に再建されました。なお、本堂前庭は「源氏の庭」とよばれており、桔梗の花が咲き誇る有名な庭となっています。 慶光天皇は東山天皇の孫に当たる人物です。閑院宮典仁親王のことで、明治期以後に慶光天皇とよばれるようになりました。光格天皇の父でもあり、天皇号が追尊されたことから、墓所は「陵」(天皇のお墓)を名乗っています。 廬山寺は紫式部の邸宅があったとされている場所です。本堂前庭(通称「源氏の庭」)の中央に「紫式部邸宅址」と書かれた石碑があります。本堂内にはそれに関する説明が書いてある額があり、それによると建立は昭和40年(1965)11月28日、角田文衛氏が考証者となっています。また、碑銘揮毫者は広辞苑の編者として有名な新村出氏です。協賛者の中には、佐藤栄作や谷崎潤一郎の名前もありました。
220-6
廬山寺
源氏の庭
220-7
廬山寺
歌碑
220-8
廬山寺
筆塚
220-9
廬山寺
鐘楼
京都府京都市上京区 京都府京都市上京区 京都府京都市上京区 京都府京都市上京区
本堂前庭は、通称「源氏の庭」とよばれています。枯山水庭園です。桔梗が美しい庭だということです。 「有馬山 ゐなのささ原 風ふけば いでそよ人を 忘れやはする」大弐三位。「めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに 雲かくれにし 夜半の月影」紫式部。とあります。廬山寺にゆかりの紫式部とその娘、大弐三位の歌碑です。 日本画家、池田遙邨(いけだようそん)の筆塚なるものがありました。筆でも埋めてあるのでしょうか。池田遙邨(1895〜1988)は岡山県倉敷市出身、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)の助教授を務めていたことがあります。 廬山寺にある鐘楼です。
221-1
浮舟
宇治十帖「浮舟」
221-2
浮舟
浮舟の古跡全景
221-3
浮舟
浮舟之古蹟1
221-4
浮舟
浮舟之古蹟2
京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市
「浮舟」は宇治十帖の7、源氏物語第51帖にあたります。
浮舟のことが忘れられない匂宮は、消息をたどってついにその所在を突き止めました。そして、浮舟のもとを訪ね、夜陰に乗じて薫を装って強引に契ってしまったのでした。浮舟も気づきはしたのですが後の祭りです。そればかりか、徐々に匂宮に惹かれつつあったのでした。薫は匂宮と浮舟の関係を気づきながらも深い愛情で浮舟を思い続けました。この二人の男性に言い寄られてなすすべもなく思い悩んだ浮舟は、挙句、入水自殺を図るべく、宇治の山荘を後にして消息を絶ってしまったのでした。
宇治の中心部から少し離れた三室戸寺の中にあります。もともとは「浮舟の杜」とよばれていた場所があり、そこには「浮舟社」と呼ばれる神社もあったそうですが、明治時代になってその場所が「莵道稚郎女(うじのわきいらつこ)の墓」とされたため、いくつかの変遷を経てこの場所に落ち着きました。 謡曲史跡保存会による浮舟古跡碑です。「旅僧が初瀬から上洛の途次、宇治で一人の女性と会い、「自分は小野の里に住む者です」といって消え失せます。旅僧がその後、小野の里で読経していたところ、浮舟の霊が現れて、往生を乞います。そこで、僧の回向をもって浮舟霊の動揺を鎮めたところ、浮舟は礼を述べて消えていく。」といった内容です。 他の宇治十帖の古跡にもある石碑です。
221-5
浮舟
源氏物語モニュメント
222-1
蜻蛉
宇治十帖「蜻蛉」
222-2
蜻蛉
蜻蛉之古蹟
222-3
蜻蛉
線刻阿弥陀三尊仏
京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市 京都府宇治市
宇治を訪れた匂宮が、浮舟をさそって小舟で宇治川へ漕ぎ出して行く場面を表しています。途中の橘の小島に立寄り、浮舟は「たちばなの小島は色もかはらじを この浮舟ぞゆくへ知られぬ」と歌を詠みました。それから二日間、二人だけの時を過ごしました。浮舟も匂宮も完全に恋に目がくらんでいたのです。
「蜻蛉」は宇治十帖の8、源氏物語第52帖にあたります。
浮舟が失踪したことで宇治の山荘は大騒ぎになりました。薫と匂宮との三角関係に悩んでいたことを知った女房達は、入水を推察して、世間体を繕うため浮舟の母を説得して、形ばかりの葬儀を営みました。浮舟の身の上におこった事態に薫は嘆きながらも、手厚く四十九日の法要を営みました。その後は、浮舟のことを忘れたかのように薫と匂宮はほかの女性に目移りしてしまいます。薫は妻女二の宮の異母姉、女一の宮に恋心を抱きます。そればかりか、女一宮の女房になった宮の君さえも、匂宮と取り合ったりするのです。
蜻蛉の帖名は、薫が浮舟や大君など故八の宮の娘たちのことを偲んで詠んだ歌、「ありと見て手には取られず見れば又ゆくへも知らず消えし蜻蛉」に由来します。 平安時代の作品と考えられ、俗に「がげろう石」とよばれています。石の高さは206cm、下部幅は106cmあります。正面に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が描かれてあります。宇治市指定文化財。
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