写真で見る日本の歴史
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075-4
歴史人物
009結城秀康
075-5
歴史人物
010桂小五郎
076-1
シーボルト宅跡
居宅跡
076-2
シーボルト宅跡
書斎跡
福井県福井市 京都府京都市中京区 長崎県長崎市 長崎県長崎市
(ゆうきひでやす)徳川家康の次男で母は家康の正室の築山御前の侍女であった側室お万の方です。家康にはあまりかわいがられていなかったようですが、それは家康が実子かどうか疑っていたからだといわれています。本来、嫡男の秀康が信長の命によって切腹させられた後は家督を継ぐのが普通ですが、家康は三男の秀忠を世継ぎに指名しました。11歳の時、小牧・長久手の戦いの講和の際の人質として秀吉のもとへ行った後は、下野の国の結城晴朝の養子となり、結城秀康を名乗りました。関ヶ原の戦いの後は松平氏に変え、越前北ノ庄を領し、この地を福井と改め、67万石の大名となりましたが、34歳で没しました。
(かつらこごろう)長州藩士の子として萩(山口県萩市)に生まれ、桂家の養子になり江戸へ出た後は、斉藤弥九郎のもとで神道無念流を学び、かなりの剣の使い手になりました。しかし、彼は一度も人を斬ったことがなかったそうです。幕末には尊皇攘夷の志士として活躍し、京都でおきた禁門の変で長州が京を追われた後も潜伏し、長州藩の再興に尽力しました。その活動が功を奏し、長州藩の方針をを攘夷から倒幕に導いた後は、土佐の坂本竜馬の斡旋で薩長同盟を薩摩の西郷隆盛らと結ぶことに成功し翌年に将軍慶喜に大政奉還をさせる道をつくりました。明治維新の後は、参議になり政界で活躍しましたが、明治10年(1877)に西郷隆盛が西南戦争をおこしている最中病気のため他界しました。
シーボルトは二度長崎へ来ましたが、第一回目の1823年来日の時に居宅としてこの鳴滝を選び、其扇(楠本滝)と暮らしました。二人には、イネという子どもが生まれました。
この書斎跡を含めた一帯は、国指定史跡です。
076-3
シーボルト宅跡
倉庫跡
076-4
シーボルト宅跡
シーボルト胸像
077-1
シーボルト宅跡
シーボルト記念館
077-2
シーボルト宅跡
若き日のシーボルト像
長崎県長崎市 長崎県長崎市 長崎県長崎市 長崎県長崎市
倉庫跡にはわずかに石組みが残っています。
宅跡の中央には晩年のシーボルトの胸像があります。シーボルトは1796年2月17日、ドイツのバイエルン州ヴュルツブルク市の医学者の家に生まれました。ヴュルツブルク大学時代には、医学をはじめ植物学、動物学、地理学、人種学などさまざまな学問を身につけていました。27歳の時来日しましたが、滞在中は其扇(楠本滝)という女性とともに暮らし、一女(イネ)をもうけました。6年後、幕府から追放処分を受け、帰国しましたが、その間、鳴滝塾を開き日本の若者を教育したりもしました。帰国後は、日本から持ち帰った資料の整理を行い、『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』のいわゆるシーボルト三部作を刊行しました。1845年、ベルリンでヘレーネ・フォン・カーケルンという女性と再婚し、3男2女をもうけました。彼の二度目の来日は、その時生まれた長男のアレクサンダーを伴ってのものでした。2年7ヶ月の滞在でしたが、その間長崎で開業医をしていたイネとも再開しました。帰国4年後にミュンヘンで亡くなりました。
日本の近代化に貢献したシーボルトを顕彰するために長崎市が設置。平成元年10月に開館しました。入館料100円、小中学生50円で開放されています。この玄関はシーボルトの祖父であるカール・カスパル宅を模しています。
若き日のシーボルト像。記念館入口にあります。
077-3
シーボルト宅跡
記念館全景
078-1
三十三間堂
078-2
三十三間堂
@
078-3
三十三間堂
A
長崎県長崎市 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 京都府京都市東山区
外観はオランダ・ライデン市にあるシーボルト旧宅を模して建てられています。3階建てで1階は玄関ホールとロビー。2階は常設展示室です。ここでは、シーボルトの生涯を6つのコーナーに分けて展示しています。それぞれ「1当時の世界と日本」「2東洋への関心」「3日本研究と医学教育」「4江戸参府前後」「5帰国と再渡来」「6子孫と顕彰」です。3階は企画展示室と収蔵庫です。
蓮華王院本堂(三十三間堂)は国宝に指定されています。金閣寺・銀閣寺および清水寺などと並ぶ京都の観光地の定番で、多くの観光客や修学旅行生が訪れます。三十三間堂は和様とよばれる建築様式で、平安時代の貴族の邸宅であった寝殿造の建物が持つ特徴を備えています。後白河法皇の発願で平清盛が造営したのが始まりです。
ここで毎年1月15日に最も近い日曜日には、「通し矢」が行われていることも有名です。一昼夜かけて矢を射続けて数を競う競技で江戸時代から行われています。毎年全国から弓道者や成人の日にちなんで、晴れ着姿の新成人たちが集まり「通し矢」の大会が行われています。
 
三十三間堂を横(北側)から見るとこのような形をしています。
078-4
三十三間堂
太閤塀
078-5
三十三間堂
B
079-1
駿府城

079-2
駿府城
二の丸橋
京都府京都市東山区 京都府京都市東山区 静岡県静岡市葵区 静岡県静岡市葵区
近くにある方広寺が豊臣氏の氏寺として隆盛を極めていた頃、秀吉によってこの三十三間堂も一部に加えられました。その時秀吉によって築かれたのがこの太閤塀です。
 
中では何と1001体もの千手観音が出迎えてくれます。ということは単純に考えても百万本の手!すごいです。知り合いに似た顔をその中に一つは見つけることができるといわれています。中央には国宝の千手観音坐像・風神雷神像・二十八部衆立像が安置されています。
本丸・二の丸があった付近に駿府公園があります。この駿府公園の一角に近年この巽櫓や東御門付近の櫓群が木造にて再建されました。内部は資料館になっています。
現在の静岡県庁の裏手にあたる位置にこの二の丸橋があります。
079-3
駿府城
二の丸堀(中堀)
079-4
駿府城
二の丸御門跡
079-5
駿府城
本丸跡
079-6
駿府城
家康手植えのみかん
静岡県静岡市葵区 静岡県静岡市葵区 静岡県静岡市葵区 静岡県静岡市葵区
駿府城は本丸を中心に三重の堀を囲むようにしてつくられた典型的な輪郭式でつくられています。写真は、最も保存状態が良い二の丸堀で、二重目の堀です。現在はこの掘の内側は、駿府公園となっています。
 
二の丸に入る正面入口で、二の丸大手門とも呼ばれていました。当時は高麗門と渡櫓門という二つの門で形成された枡形をしていました。この門をくぐると二の丸からは西の丸へと続いており、本丸へは直接入れない仕組みになっていました。
光り輝いて見えたので駿河湾の魚が怯えて逃げていったと伝えられているほどの美しさを誇った五層七階の天守閣がそびえていました。城下町からは富士山と並び立って見えたと伝えられています。この天守閣は家康在城時と寛永12年(1635)に火災にあい、その後は再建されませんでした。
静岡県指定の天然記念物です。家康が隠居して駿府城にいたとき、紀州より献上された鉢植えのミカンを移植したものと伝えられています。浜松城(静岡県浜松市)の城内にもこれから接木したミカンが植えられています。
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