写真で見る日本の歴史
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067-2
日本二十六聖人殉教地
歌碑
067-3
日本二十六聖人殉教地
二十六聖人教会
067-4
日本二十六聖人殉教地
西坂の丘より長崎港
068-1
大阪城

長崎県長崎市 長崎県長崎市 長崎県長崎市 大阪府大阪市中央区
天国の夕焼を見ずや地は枯れても
 水原秋桜子
たびの足はだしの足の垂れて冷めゆる
 下村ひろし
西坂の丘、殉教地の隣には記念館と教会があります。記念館には、隠れキリシタンの遺物やフランシスコ・ザビエル自筆の書簡などが展示されています。この教会は、昭和37年(1962)列聖100年を記念して、記念碑・記念館とともに建てられたもので二つの大きな尖塔は、天の門を意味しているのだそうです。
西坂の丘より長崎港方向の写真です。正面の赤い橋は旭大橋。画面左端の方に長崎駅があります。港の奥の方に客船「ダイヤモンドプリンセス」が見えます。
中世はこの地には石山本願寺という浄土真宗(一向宗)の寺院がありました。その後、織田信長と対立するようになり、天正8年(1580)に滅ぼされてしまいました。その3年後信長の後継者となった羽柴筑前守秀吉(豊臣秀吉)が本願寺跡に入城し、ここに大阪城(当時は大坂城)を築きました。
068-2
大阪城
青屋門
068-3
大阪城
天守閣1
068-4
大阪城
天守閣2
069-1
大阪城
天守閣3
大阪府大阪市中央区 大阪府大阪市中央区 大阪府大阪市中央区 大阪府大阪市中央区
本願寺がこの地にあった頃、この門外周辺は青屋町と呼ばれていたので、この名がついたといわれています。大阪城においては、非常口の役割を果たしていたそうです。昭和20年(1945)の空襲で焼失しましたが、戦後再建されました。創建は、江戸時代元和6年(1620)です。
慶長20年(1616)、大阪夏の陣で秀吉が築城した天守閣は焼失しました。その後、寛永6年(1629)に一度は再建されましたが、これもまもなく落雷のため焼失してしまいました。その後は長く天守閣は存在しませんでしたが、昭和6年(1931)に大阪市民の寄付金によって鉄筋コンクリート造りで再建され現在に至っています。外観は、黒田長政が大坂夏の陣の戦勝を記念して描かせた「大坂夏の陣図屏風」(重文)の絵をモデルにしています。写真のように最上階には黒地に金の模様が描かれていて、図屏風に描かれた秀吉時代の天守閣を再現しているのが分かります。
総高は55メートル。平成9年(1997)の大改修によって外壁の塗り替え等の修復のほか、エレベーターの延長、耐震工事などを行いました。再建時から内部は8階建ての歴史博物館として活用されています。 木立の中に浮かぶように見える天守閣。玉造口そばから撮影。きれいです。
069-2
大阪城
玉造門跡
069-3
大阪城
一番櫓
069-4
大阪城
六番櫓
069-5
大阪城
乾櫓
大阪府大阪市中央区 大阪府大阪市中央区 大阪府大阪市中央区 大阪府大阪市中央区
現在の玉造門は創建時の姿ではありません。明治元年(1868)の火災で周辺の建造物が焼失した後、戦時中、陸軍によって玉造門そのものも解体されたからです。この門は、大阪城の搦手門(裏門)のひとつでした。古代、曲玉などの装飾品をつくっていた職業集団(玉造部(たまつくりべ))の集落がこの周辺のあったことにその名が由来しているとのことです。
かつては一番から七番まで二の丸南側には隅櫓があったそうです。二番櫓と三番櫓は戦災で焼失。残りの櫓も現在までに失われ、この一番櫓と六番櫓が現存し、重要文化財の指定を受けています。一番櫓は二層二階で寛永5年(1628)の創建です。玉造口周辺を堀を隔ててうかがえる場所にあります。二番櫓とともに玉造口の抑えでした。
一番櫓とほとんど同じ形をしています。櫓の構造も二層二階で一番櫓と変わりありません。創建も同じ寛永5年(1628)です。江戸時代後期(天保年間)に修理がなされています。重要文化財。
乾櫓(いぬいやぐら)の乾とは「戌(いぬ)」の方角と「亥(い)」の方角との間、すなわち北西に面している櫓のことです。この櫓は茶人、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の総指揮で元和6年(1620)に建造されたといわれていて、千貫櫓とともに大阪城内で現存する最古の建造物との事です。小堀遠州は、豊臣氏・徳川氏に仕えた茶人ですが、造園・建築家としても有名です。とりわけ、この乾櫓は櫓にしては珍しくL字型をしていて、外観も「三正面の櫓」といわれているように、特徴的なのが分かります。重要文化財。
069-6
大阪城
千貫櫓
069-7
大阪城
大手口櫓群
069-8
大阪城
大手門
070-1
大阪城
豊国神社
大阪府大阪市中央区 大阪府大阪市中央区 大阪府大阪市中央区 大阪府大阪市中央区
石山本願寺の跡地に建てられた大阪城ですが、織田信長の石山本願寺攻撃の際、攻め手を悩ませた櫓があったところにあります。その時「あの櫓を落とせれば銭千貫文与えても惜しくはない」と言われたことからこの名が付いています。昭和36年(1961)の解体修理の際、土台の木材の墨書によって元和6年(1620)の建造ということが分かりました。また、この櫓は、大手口のすぐそばにあって、脇にひかえる多聞櫓などとともに、大手口を守る重要な櫓の一つでした。重要文化財。
千貫櫓(左)と多聞櫓(細長い建物)です。手前には大阪城の正門にあたる大手門が見えます。いずれも重要文化財。
 
大阪城の正門にあたります。高麗門づくりです。入口は他に玉造門、京橋門および青屋門があります。この大手門の創建も元和6年(1620)でしたが、天明3年(1783)に落雷によって焼失し、嘉永元年(1848)に補修・再建されました。重要文化財。
大阪城内にあります。豊臣秀吉を祀る神社です。訪れる人は意外に少ないです。
070-2
大阪城
桜門
070-3
大阪城
蛸石
070-4
大阪城
大阪市立博物館
070-5
大阪城
金蔵
大阪府大阪市中央区 大阪府大阪市中央区 大阪府大阪市中央区 大阪府大阪市中央区
本丸への入口。かつてこの付近に桜並木があったので桜門と呼ばれています。明治元年(1868)に焼失しましたが、明治20年(1887)に再築されました。重要文化財。
この石は蛸石と呼ばれ、大坂城内で最も巨大な石です。36畳敷(約60u)、推定重量が130tです。
本丸の一角にあります。
金蔵は江戸時代、金貨・銀貨などのお金を保管した蔵です。嘉永3年(1626)創建の後、天保14年(1843)に現在の建物に改築されました。床は石敷き、入口は三重構造と盗難防止に優れた構造となっています。重要文化財。
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