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  • 1700から1461-1480件を表示
  • 261-7祓所

    【宇佐神宮】池の上に舞台造のような祓所があります。一般の人は入れないように柵がしてありました。この前の広場を御輿掛といいます。宮司の輿を置くところだったようです。

    (大分県宇佐市)

  • 261-8呉橋

    【宇佐神宮】西参道入り口にあたる所にかけられていますが、現在は表参道ではありません。表参道は神橋側となります。この橋は、いつ頃かけられたのかが分かっておりませんが、中国「呉」の人がかけたと伝えられていることから、この名がつけられています。元和8年(1622)細川忠利によって修築されてものが現存しています。

    (大分県宇佐市)

  • 【歴史人物11】

    262-1坂本竜馬

    【歴史人物11】高知県高知市生まれ。幼い時に母をなくし、姉が母親代わりになってたくましく養育したと伝えられています。嘉永6年(1853)に江戸に出て北辰一刀流の千葉道場に通います。一度、土佐に戻った後、再び千葉道場に入門、免許皆伝となります。文久元年(1861)に土佐勤王党に参加、翌年に脱藩しました。勝海舟に弟子入りした後に、長崎で亀山社中を設立。慶応2年(1866)には薩長同盟成立の仲介をしました。

    (高知県高知市)

  • 262-2楠木正成

    【歴史人物11】河内国石川郡赤坂村(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)の生まれといわれていますが、定かではありません。元弘元年(1331)に後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕のために挙兵すると、それに呼応して幕府軍と戦いはじめました。彼の戦いに触発された足利尊氏や新田義貞らによって鎌倉幕府は元弘3年(1333)に滅亡しました。その後、後醍醐天皇の建武の新政に参画しましたが、その政治に不満を持った足利尊氏が離反。討伐に向かった新田義貞が足利尊氏に敗れ、劣勢の中、湊川の戦い(兵庫県神戸市)を挑みますが、敗北し、自害しました。

    (東京都千代田区)

  • 262-3戸田氏鉄

    【歴史人物11】父は膳所藩(滋賀県大津市)の初代藩主、戸田一西で、氏鉄は嫡男にあたります膳所藩の二代藩主となり、元和二年(1616)に摂津尼崎に移封されたのち、寛永12年(1635)大垣藩10万石で初代藩主となりました。島原の乱などで活躍し、藩政においても新田開発や治水工事などで成功をおさめ、大垣藩藩政の安定に貢献しました。

    (岐阜県大垣市)

  • 262-4水野勝成

    【歴史人物11】徳川家康の母、於大の方の弟で、三河国刈谷城主水野忠重の長男として生まれました。徳川家康とは従兄弟同士となります。ただ、若いころは気性が激しく、自分の不行状を父の忠重に報告した家臣を斬ったことで出奔し、各地を流浪します。その間、主に西国の有力大名や豊臣秀吉などに仕えましたが、どこも長続きしませんでした。その後父と和解、家督を継いだ後は関ヶ原の戦いに参加し、刈谷藩3万石に封じられました。その後、郡山藩6万石(奈良県大和郡山市)を経て、元和5年(1619)に初代福山藩として今日の福山市に、福山城を築きました。

    (広島県福山市)

  • 262-5陸奥宗光

    【歴史人物11】紀州藩士、伊達宗広の六男として生まれました。安政5年(1858)に江戸へでて、坂本竜馬らと交流する一方、文久3年(1863)に勝海舟の神戸海軍操練所に入り、後に坂本竜馬の海援隊に加わりました。明治維新後は、兵庫県知事や地租改正局長などを歴任しますが、薩長を中心とした藩閥政治に怒りを覚え、一度政界を離れます。明治19年(1886)に政界に復帰、第2次伊藤博文内閣で外務大臣に就任し、明治27年(1894)には治外法権の撤廃を成功させました。また、日清戦争後の講和条約である下関条約では伊藤博文とともに日本側の全権として締結にあたりました。

    (和歌山県和歌山市)

  • 262-6菊池寛

    【歴史人物11】香川県高松市生まれ。京都帝国大学(京都大学)文学部を卒業後、時事新報社会部記者を経て小説家になりました。雑誌「文芸春秋」を創刊したり、直木三十五賞(直木賞)、芥川龍之介賞(芥川賞)を設立したりしたことでも知られています。自らの小説(戯曲)では「父帰る」や「恩讐の彼方に」が有名です。

    (香川県高松市)

  • 【本能寺跡】

    263-1本能寺跡全景

    【本能寺跡】現在の本能寺は豊臣秀吉がおこなった区画整理によって寺町御池付近に移転していますが、それまでは現在の堀川高校裏の、ここ油小路蛸薬師付近にありました。天正10年6月2日(1582.06.21)に織田信長が明智光秀の軍勢によって自刃に追い込まれた、いわゆる「本能寺の変」があったところです。

    (京都府京都市中京区)

  • 263-2本能寺跡の碑

    【本能寺跡】応永22年(1415)、日隆上人が油小路高辻の地に本応寺を創建、その後、六角大宮に寺地を移して本能寺と改称されました。第八世日承の時にこの地に移転されました。この付近が、本能寺の変の舞台となったところです。

    (京都府京都市中京区)

  • 263-3本「能」寺

    【本能寺跡】「能」の字の右側(つくりの部分)は、通常カタカナの「ヒ」を重ねたものですが、漢字の「去」に似た形をしています。これは、本能寺の変をはじめ、堂宇が相次ぐ火災に度々見舞われていたので、「火」と音が同じ「ヒ」の文字を嫌ったからだということです。本能寺がこの字に改称されてからは、一度も火災に見舞われていないそうです。

    (京都府京都市中京区)

  • 263-4本能校跡の碑

    【本能寺跡】本能寺跡にかつてあった本能小学校跡の碑です。明治2年(1869)11月26日に下京第二番組小学校として開校したのがはじまりです。明治5年(1872)に本能小学校と改称されました。昭和14年(1929)の最盛期には児童数も706名にのぼりました。しかし、その後、京都市中心部の過疎化(いわゆる「ドーナツ化現象」)によって児童数が激減し、平成5年(1993)に閉校となりました。碑の左右に置かれた石柱は玄関前にあった燈明台座を再利用したものです。

    (京都府京都市中京区)

  • 【本能寺】

    264-1入口

    【本能寺】応永22年(1415)に日隆上人によって本応寺という名で創建されました。永享5年(1433)に六角大宮へ移転した際に、本能寺と改称しました。その後、天文14年(1545)に油小路蛸薬師に移転、ここで本能寺の変に遭います。天正10年(1582)の本能寺の変以後、豊臣秀吉によって現在地に移転されました。法華宗本門流大本山。

    (京都府京都市中京区)

  • 264-2日蓮大聖人辻説法

    【本能寺】日蓮は、比叡山などで修業を積んだ後、建長5年(1253)に当時の「将軍のお膝元」鎌倉に入りました。当時の大通りのひとつだった小町大路で、日蓮は道行く人々に毎日法華経の教えを説いていたそうです(辻説法)。現在も、日蓮が辻説法を行ったとされるところには、「日蓮大士辻説法霊跡」と書かれた石碑と「日蓮腰掛石」と呼ばれる石があります。

    (京都府京都市中京区)

  • 264-3信長公廟1

    【本能寺】織田信長の三男、織田(神戸)信孝によって建立された織田信長の廟所です。奥に織田信長の墓石があります。なお、織田信長の墓は安土城などをはじめ、各地に見られます。

    (京都府京都市中京区)

  • 264-4織田信長の墓

    【本能寺】信長の三男、信孝は二男の信雄と比べてもなかなかの器量があったということですが、頼みとする信長の筆頭家老だった柴田勝家が秀吉に敗れたことなどもあって、最後は秀吉によって自害させられてしまいました。ここにある織田信長の墓は、信孝が本能寺の変からわずか一ヶ月後に建立したもので、信長が持っていたとされる太刀が収められているとのことです。

    (京都府京都市中京区)

  • 264-5本堂

    【本能寺】入り口をくぐった右手に宝物殿があります。その宝物殿を横に見ながら進んでいくと正面にこの本堂があります。桁行及び梁間はともに七間(約25m)もあります。昭和3年(1928)に再建されたものが現存しています。

    (京都府京都市中京区)

  • 265-1信長公廟2

    【【本能寺】織田信長の三男、信孝が建立しました。本能寺の変からわずか一ヶ月後の7月3日には造られました。ここには信長所持の太刀が納められています。

    (京都府京都市中京区)

  • 265-2大住院日甫上人墓

    【本能寺】本能寺の塔頭、高俊院第4世の住職です。池の坊専光と並び称された江戸期華道の権威とのことです。元禄9年(1696)没。92歳。

    (京都府京都市中京区)

  • 265-3日承聖人の墓

    【本能寺】天文12年(1543)、43歳の時に、焼失した本能寺を四条西洞院に再興した本能寺の中興の祖ともいうべき人物です。数学の研鑚に努めて、多くの書物も残したということです。

    (京都府京都市中京区)

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