トップ > すべての画像 > a021

  • 1700から401-420件を表示
  • 087-2参道と三の鳥居

    【北野天満宮】北野天満宮の参道。ここも含め、付近一帯は松原となっており、天正15年(1587)には、豊臣秀吉が北野大茶会を催したことでも知られています。

    (京都府京都市上京区)

  • 087-3影向松

    【北野天満宮】「ようごうのまつ」影向とは降臨のこと。案内板によると、初雪の日に祭神(菅原道真か?)がこの松に降臨し、歌を詠んだとされています。そこで、毎年初雪の日に、この松の前で初雪祭りを行っているとあります。

    (京都府京都市上京区)

  • 087-4楼門

    【北野天満宮】北野天満宮の正門です。

    (京都府京都市上京区)

  • 088-1絵馬所

    【北野天満宮】この休憩所を絵馬所とよんでいます。元禄13年(1700)の建築といわれています。上には、三十六歌仙の額が掲げられています。

    (京都府京都市上京区)

  • 088-2三光門

    【北野天満宮】三光門。彫刻に月・日・星の三つがあることからこのようによばれています。また、中央には後西天皇が書いた「天満宮」の額を掲げています。北野天満宮の中門にあたります。この先が国宝の拝殿・本殿になります。重要文化財。

    (京都府京都市上京区)

  • 088-3社殿1

    【北野天満宮】拝殿や本殿などを含む社殿は三光門をくぐった正面にあります。この区域は回廊で囲まれていて天満宮の中枢ということが分かります。写真は拝殿を正面から撮影したものです。国宝に指定されています。

    (京都府京都市上京区)

  • 088-4社殿2

    【北野天満宮】北野天満宮の祭神は菅原道真です。大宰府に左遷されて二年後になくなり、死後は怨霊となって京都に災いをもたらしたとされていますが、もともと道真は、奈良時代からの学者の家柄に生まれ、自身も文章博士となっていた関係で、江戸時代以降は、寺子屋などでの教育の際、学問・芸道の神として崇められるようになりました。現在でも多くの受験生の信仰を集めており、参拝者が絶えません。

    (京都府京都市上京区)

  • 088-5社殿3

    【北野天満宮】本殿は多くの社殿において、立ち入りできない非公開の場所にあります。北野天満宮は拝殿と石の間で繋がっており、楽の間とともに国宝に指定されています。この拝殿と本殿を石の間でつなぐ建築様式は八棟造(やつむねづくり)とよばれ、この北野天満宮の社殿が最も代表的な例です。後の権現造(ごんげんづくり)の原型となったものです。

    (京都府京都市上京区)

  • 【太宰府天満宮】

    089-1太宰府天満宮

    【太宰府天満宮】祭神は菅原道真公です。延喜3年2月25日現在の本殿がある辺りに道真が葬られ、菅聖廟安楽寺天満宮と称したのが始まりです。学業成就の神として有名です。この鳥居は九州では最古で、南北朝時代(14世紀ころ)に建立されたと伝えられています。筑後国有坂城主新田大炊介の寄進と記されています。

    (福岡県太宰府市)

  • 089-2こち吹かば

    【太宰府天満宮】「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」昌泰4年(901)に大宰権帥を命じられ、左遷されることになった道真が、京都を出発する際に屋敷(紅梅殿)の梅に惜別の思いを込めて詠んだ歌です。

    (福岡県太宰府市)

  • 089-3志賀社

    【太宰府天満宮】祭神は綿津見三柱神。綿津見(わだつみ=海神)をまつっていることから、海上安全守護の信仰があります。案内板によると、長禄3年(1458)再興、壱間社入母屋造でその建築様式には、和・唐・天竺の三様式がみられます。重要文化財。

    (福岡県太宰府市)

  • 089-4楼門

    【太宰府天満宮】太宰府天満宮の本殿の入口にある立派な門です。

    (福岡県太宰府市)

  • 089-5社殿

    【太宰府天満宮】天正19年、毛利元就の三人の息子(三矢の訓で有名)のうちのひとり、小早川隆景による再建とされています。重要文化財。正面の唐破風造の向拝が、豪華華麗な桃山文化の特色を出しています。

    (福岡県太宰府市)

  • 089-6飛梅

    【太宰府天満宮】この太宰府天満宮の御神木「飛梅」は、藤原時平の陰謀で都から大宰府へ左遷されることになった菅原道真の屋敷の庭にあったといわれています。太宰府への出発の際に庭の梅の木に対して、惜別の思いを込めて、あの「東風吹かば・・・」の和歌を詠みました。この後、主人を失った梅の木は、道真を慕って後を追うように大宰府まで飛来したとの事です。

    (福岡県太宰府市)

  • 【壬生新選組史跡】

    090-1新選組屯所遺蹟

    【壬生新選組史跡】新選組は文久3年(1863)に将軍徳川家茂の上洛警護のために結成された「浪士組」から始まりました。その時以来、芹沢鴨・新見錦や、後に新選組のトップ2となる近藤勇、土方歳三などの「浪士組」メンバーの宿舎があったのがこの周辺です。後に、京都守護職松平容保の会津藩預りとなり「新選組」を結成した後も、この京都壬生の名家、八木家には新選組の屯所が設けられました。新選組は、京都の治安維持や浪士取締りなどに活躍しましたが、隊士が増加していき、手狭になってきたため、慶応元年(1865)に西本願寺に屯所が移されました。

    (京都府京都市中京区)

  • 090-2坊城通り

    【壬生新選組史跡】新選組ゆかりの通りです。壬生寺、八木邸、前川邸などがあります。

    (京都府京都市中京区)

  • 090-3八木家

    【壬生新選組史跡】八木家は壬生村きっての旧家で、壬生郷士の長老を務めていました。また、幕末には新選組の屯所があった所です。写真は入口で、中は撮影禁止になっていますが、芹沢鴨暗殺の時に沖田総司がつけたといわれている鴨居にのこる刀傷などがあります。京都市指定有形文化財。

    (京都府京都市中京区)

  • 090-4隊士腰掛の石

    【壬生新選組史跡】本屋敷と表屋敷の間、つまり新選組の道場のあたりにあったものです。隊士たちも腰を下ろし、休んでいました。屋敷を二、三移動した後、ここに落ち着きました。

    (京都府京都市中京区)

  • 090-5鶴寿井

    【壬生新選組史跡】数百年前から残る井戸です。飲料水として新選組の隊士も利用していたとの事です。この井戸の水質は大変優れており、これを飲むと健康長寿に恵まれるということから「鶴寿井」という名前が付けられました。

    (京都府京都市中京区)

  • 091-1壬生塚

    【壬生新選組史跡】壬生寺の境内にあります。近藤勇の胸像や芹沢鴨の墓などがあります。新選組の隊士たちの墓碑を集めた場所です。

    (京都府京都市中京区)

  • < 前の20件 次の20件 >

▲top