写真で見る日本の歴史
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会津若松城1
南走り長屋と干飯櫓
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会津若松城1
南走り長屋
225-7
会津若松城1
干飯櫓
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会津若松城1
表門と天守閣
福島県会津若松市 福島県会津若松市 福島県会津若松市 福島県会津若松市
平成13年(2001)に新たに木造で再建されました。南走り長屋から干飯櫓までは天守閣、表門(鉄門)と連続して連結する一連の建物です。走り長屋同様、帯郭と天守閣、奥御殿を隔てる重要な位置にあります。 平成13年(2001)の再建で、木造で造られています。発掘調査や古写真などをもとに、当時の姿を忠実に再現してあるそうです。走り長屋と同様、帯郭から天守閣へと侵入しようとする敵を防ぐ重要な位置にあります。屋根は、他の建物と違ってやや茶色っぽい印象を受けました。 南走り長屋とともに、平成13年(2001)に木造で再建されました。その名の通り、保存食である干飯の貯蔵庫として使われていました。外側には石落としも設けられており、堀から石垣を登ってくる敵から守るための施設も備えられています。現在は、天守閣から走り長屋、表門、南走り長屋を経て、この干飯櫓まで内部を歩いて移動できるようになっています。
干飯櫓付近からの撮影です。南走り長屋の屋根の色が他の建物と違うのが分かるかと思います。表門の上には天守閣がそびえています。
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会津若松城1
天守閣5
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会津若松城1
天守閣から小田山
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会津若松城1
天守閣から飯盛山
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会津若松城1
天守閣から武者走り
福島県会津若松市 福島県会津若松市 福島県会津若松市 福島県会津若松市
もともと蒲生氏郷が文禄2年(1593)に建てた天守閣は7層の望楼型でしたが、慶長16年(1611)におこった会津地震で倒壊した後に再建された天守閣は、5層5階の層塔型となりました。この時に造られた天守閣は、慶応4年(1868)の会津戦争で新政府軍の砲弾を何発も受け、倒壊寸前まで傷つきました。その後、破却され天守閣がない状態でしたが、昭和40年(1965)に鉄筋コンクリート造りで再建されました。外観は往時の姿を忠実に再現してあります。内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されています。 会津若松城の東南に面する高さ約372mの小田山は、会津戦争の際に新政府軍の砲台が建設され、連日のように会津若松城にむかって砲撃が繰り返されたところです。 飯盛山は白虎隊市中二番隊の少年たち20名が自刃した場所です。飯沼定吉はその後一命を取り留めたため、自刃によって死亡したのは19名になります。戸ノ口原の戦いで敗れた彼らは、お城を望むことができる飯盛山まで落ち延びてきましたが、ここで意を決して自刃しました。 天守閣から武者走りをみた写真です。防御の要としての位置にあり、しっかりとした石組みで造られています。
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会津若松城1
天守閣から櫓群
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会津若松城1
天守閣から本丸御殿跡
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会津若松城1
本丸御殿跡
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会津若松城1
奥御殿の庭跡
福島県会津若松市 福島県会津若松市 福島県会津若松市 福島県会津若松市
手前から、走り長屋、鉄門、南走り長屋、干飯櫓となります。天守閣から続く一連の建物群です。 現在は芝生が敷き詰められています。戦後しばらくは財政非常事態解決策の一環として競輪場があったそうです。昭和32年(1957)に城外に移転した後で、緑地、公園化がすすみ、昭和35年(1960)に現在の形に整備されました。 藩主の日常の居館があったところです。奥に見えるのは、茶室「麟閣」です。 奥御殿の庭跡はこのように整備されています。奥御殿内には茶室「麟閣」などがありました。麟閣は本丸内の旧地に再建してあります。
227-1
野宮神社

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野宮神社
入口
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野宮神社
黒木鳥居
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野宮神社
良縁祈願の絵馬
京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 京都府京都市右京区
野宮神社はかつて天皇の代理で伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に向かう前に身を清めた場所です。源氏物語でも六条御息所の娘が斎宮となり、ここで潔斎するために身を清めています。一年間の潔斎の後、伊勢神宮へと下るのですが、この時の儀式を「斎王群行」といい、現在でも、毎年10月の例祭で「斎宮行列」という行事が行われ、当時の様子が再現されています。 入口は黒木鳥居と小柴垣に囲まれています。小柴垣はクロモジの木でできています。 黒木鳥居はクヌギの木でできています。樹皮をそのまま用いた原初的な鳥居です。これら黒木鳥居や小柴垣は源氏物語の賢木の帖でも描写されています。 縁結びの神、野宮大黒天が祭られていて、良縁祈願の絵馬が並べてあります。手前にある神石(亀石)は、「祈りを込めてなでると、願いごとがかないます。」とあります。
227-5
野宮神社
本殿
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野宮神社
じゅうたん苔
228-1
歴史人物10
谷風梶之助
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歴史人物10
上杉鷹山
京都府京都市右京区 京都府京都市右京区 宮城県仙台市 山形県米沢市
正面は野宮大神(天照皇大神)が祭られています。健康と知恵授けの神です。右側は、鎮火勝運の神、愛宕大神を祭られています。左側の境内社には、白峰弁財天、白福稲荷大明神、大山弁財天、野宮大黒天が祭られています。 苔が敷き詰められた庭園が境内の奥にあります。嵐山の風景を表現しているそうです。 (1750/09/08 - 1795/02/27)第4代の横綱。本名は金子与四郎といいます。現在の宮城県仙台市若林区霞目に生まれ、伊達関(のちに達ヶ関)として初土俵。安永10年(1781)三月場所で大関昇進。連勝記録は63で、双葉山に次いで二位です。勝率9割5分という圧倒的な強さだったそうです。江戸幕府11代将軍、徳川家斉の上覧相撲の時に、谷風が弓を賜り、それを使って土俵上で舞ったのが現在の弓取り式の始まりとされています。 (1751/09/09 - 1822/04/02)日向高鍋藩主の秋月種美、黒田長貞の娘の春姫の次男として生まれました。母方の祖母が米沢藩第4代藩主、上杉綱憲の娘だったことが縁で、米沢藩第8代藩主、上杉重定の養子となりました。前藩主の重定の時代には藩の財政は破たん寸前でしたが、質素倹約のうえ、さまざまな産業をおこして米沢藩の財政を立て直すとともに、天明の大飢饉では、東北地方において、唯一米沢藩だけ一人の餓死者も出さなかったという善政を敷きました。米沢藩中興の祖として、現在も愛されています。
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