写真で見る日本の歴史
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長崎平和公園
原爆殉難者之碑
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長崎平和公園
長崎の鐘
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長崎平和公園
平和祈念像
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長崎平和公園
被爆者の店
長崎県長崎市 長崎県長崎市 長崎県長崎市 長崎県長崎市
動員学徒、女子挺身隊、徴用工、一般市民の原爆殉難者の冥福を祈るために33回忌の1977年に建立されました。上には「長崎の鐘」が掲げられています。
碑文「長崎の鐘よ鳴れ 長崎の鐘よ鳴れ 私達の肉親を奪った 私達のからだをむしばんだ あの原爆が いかに恐ろしいものであったか あの戦争が いかに 愚かなものであったか 長崎の鐘よひびけ 長崎の鐘よひびけ 地球の果てから 果ての果てまでも 私達の願いをこめて 私達の祈りをこめて」
世界恒久平和のシンボルとして昭和30年(1955)8月の原爆10周年記念日に建立されました。制作は彫刻界の権威、北村西望氏です。高さは約10mあります。上方を指した右手は原爆の脅威を示し、水平に伸ばした左手は平和をすすめる姿、軽く閉じた目は、戦争犠牲者の冥福を祈っている姿を表しています。
長崎原爆被災者協議会の運営するお店です。長崎の土産品などが買えます。平和公園の隣、岡町にあります。
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長崎平和公園
原爆落下中心地
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長崎平和公園
浦上天主堂遺壁
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関ヶ原古戦場
開戦地
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関ヶ原古戦場
松平忠吉・井伊直政陣跡
長崎県長崎市 長崎県長崎市 岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町
原爆落下中心地の碑です。同心円の中心に建っており、原子爆弾が昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、この真上約500mの地点で炸裂したことを表しています。手前には、原爆殉難者奉安箱があり、原爆で亡くなられた方の名前がおさめられています。 爆心地から北東へ約500mのところにあった浦上天主堂の一部です。原子爆弾の炸裂によって破壊された天主堂は、わずかにまわりの壁を残すのみとなりました。広島の原爆ドームと同様に、保存が検討されましたが、断念され、南側の一部だったこの側壁が昭和33年(1958)に移築されました。
慶長5年9月15日(1600.10.21)に徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍(総大将は名目上毛利輝元となっている)が関ヶ原に布陣しました。資料によって前後はありますが、東軍7万4千、西軍8万2千の大軍が対峙しました。決戦が始まったのは、午前8時ころです。
濃霧のため、見通しがききませんでしたが、午前8時ころになって、霧が晴れてきたので先ず、東軍の井伊直政と松平忠吉(家康の四男)の隊が戦端の火蓋を切ろうとしました。先陣は福島正則が担当することになっていましたが、天下分け目の戦は徳川家とその譜代によってはじめられなければならないと考えてのことだったようです。
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関ヶ原古戦場
福島正則陣跡
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関ヶ原古戦場
宇喜多秀家陣跡
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関ヶ原古戦場
岡山(丸山)烽火場
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関ヶ原古戦場
黒田長政。竹中重門陣跡
岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町
福島正則の隊の横をすり抜けて行こうとした井伊・松平隊を、福島隊は呼び止めて詰問しましたが「物見」といわれたので、前方へ行かせました。しかし、突然、宇喜多秀家の軍に発砲し、戦闘が始まったことから、福島正則も遅れまいと前方の西軍、宇喜多秀家の軍に攻撃を仕掛けました。 宇喜多秀家は、秀吉の養子として小さい頃から秀吉にかわいがられていましたから、関ヶ原の戦いでも西軍の主力として戦いました。約1万7千の大軍だったといわれています。宇喜多隊は戦闘が始まってから、福島隊と互角の戦いを繰り広げていました。なお、宇喜多秀家の隊には若いころの宮本武蔵が属していたといわれています。 この岡山(丸山)の山頂には、黒田長政と竹中重門の隊が布陣していました。午前8時ころ、開戦の火蓋が切られると、この烽火場から狼煙を上げて戦いが始まったことを東軍の諸隊に知らせ、戦闘を開始することを伝えました。同時に、西軍が陣取る笹尾山と北天満山からも狼煙が上がり、戦いが開始されました。 戦いが始まると、黒田長政隊は5千4百の兵力で細川忠興隊5千百とともに、正面に陣取る笹尾山の石田三成を攻めました。しばらくは、両軍互角で一進一退の攻防だったと伝えられています。
183-1
関ヶ原古戦場
笹尾山
183-2
関ヶ原古戦場
笹尾山竹矢来
183-3
関ヶ原古戦場
島左近陣跡
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関ヶ原古戦場
石田三成陣跡1
岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町
笹尾山に布陣した石田三成隊は、黒田、竹中、細川、加藤らの隊と激しい攻防を繰り広げました。戦いの序盤、もっとも激しい戦闘が行われていたところといえるでしょう。
黒田長政隊や細川忠興隊が笹尾山の石田三成を激しく攻撃しましたが、三成の軍も配下の、島左近や蒲生郷舎らの奮戦で一歩も譲らず、一進一退の攻防がしばらく続きました。写真は、石田三成が陣取る笹尾山の中腹にある敵の攻撃を防ぐ竹矢来が復元されたものです。
午前9時ごろ、奮戦していた三成の家臣、島左近が黒田長政隊が側面に配置した鉄砲隊の弾に当たって負傷しました。その後の左近の行方ははっきりとしませんが、戦いが終盤に差し掛かった頃、最後の突撃を敢行し、討ち死にしたといわれています。 島左近がやぶれたことで崩れかけた石田隊ですが、三成自ら陣頭指揮をとったこともあり、大きく崩れませんでした。持ち直して、戦いを続行しますが、黒田、細川、加藤らの攻撃を受けて苦戦を強いられました。
183-5
関ヶ原古戦場
石田三成陣跡2
183-6
関ヶ原古戦場
徳川家康最後の陣跡
184-1
関ヶ原古戦場
藤堂高虎・京極高知陣跡
184-2
関ヶ原古戦場
松尾山
岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町 岐阜県不破郡関ケ原町
西軍は石田隊と福島正則隊と交戦している宇喜多隊のみが戦いをしている状態でした。それでも互角の戦いをしているのですから、ここで松尾山に陣取る小早川秀秋と南宮山に陣取る毛利秀元が参戦すれば、勝機があると考えられました。しかし、両隊はおろか隣に布陣する島津義弘の隊も参戦しません。三成は諸隊に参戦の狼煙を上げますが反応がなく、島津隊には家臣の八十島助左衛門を遣わして、参戦を促しましたが、拒否。三成自らも赴きますが一向に動こうとはしませんでした。 戦いが始まってしばらくはこう着状態が続きましたが、家康が陣取っていた桃配山からは合戦の全貌が見えにくかったため、家康は、本営を前進させて石田隊が陣取る笹尾山の東南、約1キロのこの地点まで移動させてきました。事前に寝返りを約束した小早川秀秋の大軍がどちらにつくか今だ迷っていた中での前線への移動ですから家康にとっては大きな賭け、三成にとってはチャンス到来といったところでした。戦いの帰趨は小早川隊がどう動くかによって決まる情勢となってきたのです。
藤堂高虎は、信長、秀吉、家康と主君を変えながら戦国の世を生き抜いてきた武将です。築城とくに縄張りの名人だったといわれています。高虎は関ヶ原の戦いのときには東軍に属し、小早川秀秋が布陣する松尾山の抑えとして、福島正則隊の左翼に布陣していました。
西軍として松尾山に陣取っていた小早川秀秋の大軍は、東軍への寝返りを事前に約束していましたが、戦闘が始まってもどちらに付くか迷っていました。しかし、東軍から威嚇射撃を受け、ついに寝返りを決意しました。山を下った小早川隊は大谷吉継隊に攻めかかり、戦況は一気に東軍が有利になりました。
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