写真で見る日本の歴史
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020-2
唐津城
天守閣
020-3
唐津城
城下絵図
021-1
岩国城
021-2
岩国城
大釣井
佐賀県唐津市 佐賀県唐津市 山口県岩国市 山口県岩国市
現在の天守閣は、寺沢氏時代の天守台に慶長様式で再建されたもので、昭和41年10月に完成しました。5層5階(地下1階)本瓦葺。本丸跡は現在舞鶴公園として開放され、藩主の敷地は高校敷地になっています。
天守閣がある本丸を中心として鶴が羽を広げたような形になっていることから舞鶴城という別名が付いたといわれています。城は本丸・二の丸・三の丸・外曲輪(そとくるわ)に分かれており、本丸には天守台、二の丸には藩主の住居と藩庁、三の丸には藩士の館、外曲輪には町人の居住地と町奉行所がそれぞれ置かれていました。
築城者 吉川広家
(慶長13年、1608年)

慶長8年起工、同13年(1608)完成しましたが、幕府の一国一城令によって元和元年(1615)に破却されました。
それ以後は、この城は廃墟のままでした。
この大井戸は、築城と同時につくられました。非常時の備えとしての武器弾薬を貯蔵していたともいわれています。また、敵に包囲されたり、落城の危機さらされた時の脱出口を兼ね備えていたともいわれています。しかし、肝心の脱出口は確認されていません。
021-3
岩国城
天守台跡
021-4
岩国城
天守閣
021-5
岩国城
巌流ゆかりの柳
021-6
岩国城
錦帯橋
山口県岩国市 山口県岩国市 山口県岩国市 山口県岩国市
現在の天守閣が建っているそばに、旧天守台がありました。現在では、整備されて礎石がおいてありました。古式穴太積み(こしきあのうづみ)という積み方を基本に石垣は積まれていますが、これにこの地方独自の技法が加わった特徴的な積まれ方をしています。石垣は、大きめの石のすき間に、小さめの石を埋めていくのを基本としていますが、近世の城郭に特徴的ないわゆる「反り」はなく、見かけの美しさよりも、構造上の安全性に重点を置いたつくりになっています。
現在の天守閣は、昭和37年に桃山風南蛮造りという建築様式で再建されたものです。江戸時代に造られた城にしては珍しい山城です。そのため、天守閣からは、現在は錦川とそれに架けられている有名な錦帯橋や岩国市街地、米軍基地そして遠くには瀬戸内海の島々が見ることができます。
横山(岩国城がある山)の麓を流れる錦川の脇には、巌流ゆかりの柳というものがあります。
吉川英治氏の小説『宮本武蔵』によると、巌流島の決闘で宮本武蔵に負けた佐々木小次郎は岩国生まれで、幼少の頃母から家伝の長光の刀を授かり、この周辺の柳とつばめを相手に修行を行ない、剣術の技能を高め、有名な「つばめ返し」の技をあみ出したとあります。
錦川に架けられている有名な錦帯橋は、最初架けられた時は大雨による増水で流わずか1年足らずで流されてしまっています。
しかし、2度目の橋は架橋以来300年近くも流失しなかったそうです。その理由は、人柱として身を投げた二人の美しい姉妹がいたからであるといわれています。以来、錦川や錦帯橋の石垣からは人形の形をした石(石人形)がとれるようになりました。

実は、その石人形は、姉妹の化身であるといわれています。
022-1
志賀島
金印公園
022-2
志賀島
金印の印影
022-3
志賀島
蒙古塚1
022-4
志賀島
蒙古塚2
福岡県福岡市東区 福岡県福岡市東区 福岡県福岡市東区 福岡県福岡市東区
『後漢書東夷伝』という中国の古い歴史書によると、中国に後漢(25〜220)という王朝があった時代、現在の福岡市付近に奴(な)という国があり、その国が後漢に使者を送ったときに、ときの後漢の皇帝であった光武帝が金印を授けたという記録があります。
その金印がなぜか、江戸時代(天明4年・1784年)に偶然この地で発見されました。
【漢委奴国王】(かんのわのなのこくおう)と刻印されています。本物は現在福岡市立博物館に保存されています。
現物は大きさが一辺が2,3センチの正方形をしており、重さが約108グラムでほぼ純金にちかいものだそうです。かつて、大陸と親密な交易がこの地で行なわれていたことがうかがえます。
しかし、この地でなぜ金印が発掘されたのかは未だに学会の謎だそうです。
志賀島は、歴史に二度も登場します。一度目は金印出土地として。二度目は鎌倉時代、ときの執権は北条時宗、昔中国にあった王朝の元(1271〜1368)の皇帝、フビライ・ハンが日本侵略を企てて二度も侵略してきました。
一度目は1271年(文永の役)で、二度目は1281年(弘安の役)です。
いずれも、元軍を退けることには成功しましたが、志賀島はいずれの時も激戦地になりました。
蒙古とは元軍のことです。文永11年(1274年)10月、九州北部に台風が直撃し、蒙古軍の乗った軍船はことごとく大破してしまったそうです。日本ではこれを神風と呼びましたが、その時、志賀島で難破して戦死した蒙古兵を供養するために、昭和に入って建立されたのがこの蒙古塚と供養塔です。
 
 
022-5
志賀島
蒙古軍供養塔
023-1
長浜城
023-2
長浜城
太閤井址
023-3
長浜城
領境石碑
福岡県福岡市東区 滋賀県長浜市 滋賀県長浜市 滋賀県長浜市
昭和のはじめ、日蓮宗の僧、高鍋日統の提唱で建立されたもので、現在、勝立寺で祀られています。
所在地 滋賀県長浜市
長浜はもとは今浜と呼ばれていましたが、姉川の合戦の功により湖北三郡を与えられた織田信長の家臣、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、地名を長浜に改め、ここに城下町を築きました。
後に天下を統一した秀吉が、初めて領主として自らの城を築き、城下町を形成した地ですので、ここは秀吉の出世城という位置づけがなされています。
秀吉の後も山内氏・内藤氏らが入城しましたが、1615年に廃城となりました。
 
長浜城周辺は豊公園とよばれる公園として整備されています。その公園内にあった石碑です。天守閣からは琵琶湖が一望できますが、この石碑も琵琶湖畔にありました。
 
秀吉統治下の長浜は楽市・楽座が施行され、その制度は江戸時代も引き続き行なわれていましたので、他地域と区別するための境界を明確にする必要がありました。
この石碑には「これより東 長浜領・これより南 長浜領」と書いてありましたので、もとは長浜の西北隅に立っていたと思われます。
023-4
長浜城
天守閣
024-1
金沢城
石川門
024-2
金沢城
五十間長屋
024-3
金沢城
三の丸堀・橋爪門続櫓
滋賀県長浜市 石川県金沢市 石川県金沢市 石川県金沢市
建物や石垣は彦根城の築城に伴ってその建築資材に使用されました。その天秤櫓や三重の隅櫓は長浜城の遺構と考えられています。
現在の長浜城は、昭和58年に再興され、市立長浜歴史博物館になっています。二層の大屋根に望楼を乗せた初期天守の様式で、秀吉時代の長浜城を想定して建築されています。
重要文化財指定の石川門は実は金沢城の裏口にあたりますが、天明8年再建後は、焼失せずに現在まで残った数少ない建造物のひとつです。そのため、金沢城の顔的存在になっています。屋根が白っぽく見えるのは鉛葺きのためです。鉛は軽く、冬季に雪が屋根に降り積もった時に雪の重みに耐えうるため、また、いざという時は鉄砲の弾になりますので、雪国である金沢の城には最適だと考えられます。
左から橋爪門続櫓、五十間長屋、菱櫓です。平成13年に復元されました。中に入られるようになっています。説明係の方はなかなか上手でした。
橋爪門続櫓は、本丸(天守閣もふくむ)から二の丸へ金沢城の中心が移行した後は、城主が戦の時に指揮にあたる場所とされていました。
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