写真で見る日本の歴史
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010-5
姫路城
千姫と化粧櫓
010-6
姫路城
菱の門
011-1
姫路城
西の丸から二の丸へ
011-2
姫路城
天守閣へ向かう路@
兵庫県姫路市 兵庫県姫路市 兵庫県姫路市 兵庫県姫路市
徳川2代将軍秀忠の姫君、千姫ははじめ豊臣秀頼に嫁ぎましたが、豊臣氏滅亡のときに助け出されました。その後、姫路城主本多忠政の子、忠刻に再嫁しました。その時将軍家よりもらった化粧料10万石でこの櫓をつくったとされています。毎朝、千姫は城の西北にある男山天満宮を遥拝したといわれ、その休憩所にこの化粧櫓を利用したといわれています。
二の丸正門ともいうべき門です。漆塗りの火燈窓があります。
「ろ」の門より「は」の門へいたる途中で撮影。正面には天守閣がみえます。
 
正面には「はの門」が見えます。礎石には、石が不足していたのか灯篭の台石を転用したものを使用しています。漆喰で固めた壁には、三角形の孔がみられますが、これは狭間(さま)といって、外をうかがい、矢弾を放つための小窓です。多くの城郭に見られます。矩形、円形など様々な形のものがあります。
011-3
姫路城
天守閣へ向かう路A
011-4
姫路城
天守閣
011-5
姫路城
天守閣地下
012-1
原城
兵庫県姫路市 兵庫県姫路市 兵庫県姫路市 長崎県南島原市
「に」の門へ。狭く曲がりくねった路と高い石垣、そして多くの門によって固い守りを可能にしているのがわかります。
姫路城の大天守は、3つ(東・乾・西)の小天守とそれらを渡櫓で結んだ連立式とよばれるもので、非常に美しい姿をしています。全国の現存する、または再建された天守閣の中においても、最も美しい姿をしているといっても良いのではないでしょうか。
外観五重、内部六階、地下一階の大天守は、14,7mの石垣上に31mの高さでそびえたっています。内部中央には東西二本の大柱が地下から伸びています。この大柱は地階で見ることができます。昭和の大修理の時は、西大柱の取替え作業で多くの困難に直面しました。
原城は明応5年(1496)、領主有馬貴純が築城したものです。有明海を航行する船は原城に美しさに見とれ、つい時の経つのも忘れて日暮れまで見入ってしまうというので、別名「日暮城」と呼ばれていました。元和2年(1616)に、松倉重政がこの地を治めるようになりましたが、一国一城令により島原城を居城とし、その建築に原城から多くの資材を運んだため、廃城となってしまいました。
012-2
原城
城壁
012-3
原城
天草四郎像
012-4
原城
空濠跡
012-5
原城
大手門跡
長崎県南島原市 長崎県南島原市 長崎県南島原市 長崎県南島原市
松倉重政は島原城を築城するにあたり、多くの石材を原城から運びましたが、ここに写っているのは取り残された築城当時の遺構です。こうして、原城は朽ちていくのですが、1637年、松倉氏の過酷な支配とキリシタン弾圧に対して、農民が蜂起し、ついに島原の乱(島原・天草一揆)が起こりました。その時、一揆軍が立てこもった場所として、再び歴史に登場することになります。そして、はからずも悲劇の舞台になってしまうのです。
本丸には、天草四郎像があります。14年(1637)10月25日、この天草四郎時貞を盟主に反乱が起こりました。本名を益田時貞といい、関ヶ原の戦い(1600)に敗れて処刑された小西行長の家臣、益田好次の子といわれています。この時まだ、16歳でした。こうして、約3万7千人(2万7千人とも)の一揆軍が原城に終結しました。初めは、幕府から派遣された鎮圧軍に対して善戦し、幕府側も多くの死傷者が出ました。戦いは、長期戦の様相を呈してきましたので、鎮圧軍は兵糧攻めに切り換え、一揆軍を追い込む作戦をとりました。
ここは、空濠(からぼり)といい、一揆軍が防衛のために構築したくぼみです。籠城の時はこの上をカヤでおおい、非戦闘員を収容していたところでした。食料がそこをついてきた一揆軍は、1638年2月21日、約4千人が食料奪取を目的に空濠に集結し、夜襲を試みました。しかし、失敗に終わりました。
ここには、原城の表玄関、大手門がありました。よって、一揆軍も有馬藍物や大江源衛門らの指揮のもと3千5百名もの農民が死守していました。しかし、2月28日の総攻撃の時、細川軍がこれを破り、一揆軍を全滅しました。大手門が破られた原城は、その日のうちに落城することになります。
012-6
原城
虎口跡
012-7
原城
本丸跡
012-8
原城
天草四郎の墓
013-1
広島城
長崎県南島原市 長崎県南島原市 長崎県南島原市 広島県広島市中区
遠くには、雲仙普賢岳が見えます。虎口とは、本丸の入口にあたるところを指します。ここは、本丸侵入に対する最後の防衛線でしたが、抵抗も空しく終わった最後の戦闘があった辺りです。発掘調査により、門柱の礎石や玉砂利、大量の瓦などが出土しました。ここには本丸正面の門として、瓦葺の立派な門があったと考えられます。一揆の後、徹底的に破壊されたものと考えられていますが、壊して地中に埋める時、周りにあった一揆軍の遺体も一緒に埋め込んだと思われ、石の下からは多くの人骨が出土します。
2月28日、本丸まで侵入を許した一揆軍は全滅しました。こうして、88日間にも渡った籠城は終わりました。現在、本丸跡には十字架が建てられています。

痛ましき 原の古城に来て見れば

 
ひともと咲けり 白百合の花
          新村 出


新村 出(しんむら・いずる)1876-1967 言語学者、国語学者。広辞苑の編者でも有名。
本丸のかたわらには、天草四郎の墓がありました。天草四郎自身も、2月28日の戦闘で敗死しました。
築城者 毛利輝元
築城年 天正19年(1591)
戦国時代末期、中国地方の殆どを領有していた毛利輝元は、それまで本拠としていた安芸の山間部の吉田では、新しい時代に対応できないと感じ、海陸の接点である広島に城を築きました。その後は福島氏、浅野氏の居城となって明治維新をむかえました。昭和6年には、天守閣は国宝に指定されましたが、同20年、原爆のために全壊しました。
013-2
広島城
二の丸櫓
013-3
広島城
二の丸櫓(太鼓櫓)
013-4
広島城
内堀暗渠跡
014-1
広島城
広島護国神社
広島県広島市中区 広島県広島市中区 広島県広島市中区 広島県広島市中区
左から平櫓・多門櫓・太鼓櫓。広島城の二の丸は、出撃の拠点である馬出しの機能を持ち、本丸の正面を守る役割を果たしていました。平成6年に復元されました。
 
再建された太鼓櫓は、現在、中部を見学できるようになっています。中部は、浅野氏ゆかりの史跡や広島の歴史を学習できるようになっています。
 
この石組みは、かつて外堀と内堀とを結んでいた暗渠(あんきょ=地下水路)遺構の一部です。堀の水量の調節を行なった水路と考えられています。昭和57年9月に、地下道の建設中に発見されました。
 
広島城内には護国神社があります。明治元年(1868)、戊辰戦争の戦死者を祀るために建設されました。当時は「水草霊社」と呼ばれていました。その後、明治8年に「官祭招魂社」と改称されたのを経て、昭和14年に現在の名称になりました。
 
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