 2017-08-01
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 2017-08-21

岡倉天心( おかくら てんしん )
Tenshin OKAKURA:日本の伝統美術の優れた価値を再発見
東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の初代校長。その後は日本美術院を設立。
(撮影:2011-02-12)
【生涯】
| 文久 2年(1863) | 元福井藩士、岡倉勘右衛門の次男として、神奈川県横浜市(現在の横浜開港記念会館付近)に生まれる | 
|---|---|
| 明治 4年(1871) | 9歳:洋学校「高島学校」へ入学 | 
| 明治 6年(1873) | 11歳:東京へ移転、東京外国語学校(現、東京外国語大学)に入学 | 
| 明治 8年(1875) | 13歳:東京開成学校に入学 | 
| 明治11年(1878) | 16歳:基子と結婚 | 
| 明治13年(1880) | 18歳:東京大学(東京開成学校から改編)文学部卒業 | 
| 明治14年(1881) | 19歳:長男、一雄誕生 | 
| 明治15年(1882) | 20歳:専修学校(現、専修大学)の教官となる | 
| 明治19年(1886) | 24歳:欧米視察旅行(〜翌年) | 
| 明治20年(1887) | 25歳:東京美術学校幹事 | 
| 明治22年(1889) | 26歳:美術雑誌『国華』創刊、帝国博物館理事就任、大博覧会美術部審査官 | 
| 明治23年(1890) | 27歳:東京美術学校初代校長に就任(副校長はフェノロサ) | 
| 明治31年(1898) | 35歳:東京美術学校退職、日本美術院を発足 | 
| 明治37年(1904) | 41歳:ボストン美術館勤務 | 
| 明治45年(1912) | 49歳:文展審査委員就任 | 
| 大正 2年(1913) | 50歳:新潟県赤倉温泉の山荘にて死去 | 
【基本データ】
| 名前 | 岡倉天心( おかくら てんしん ) | 
|---|---|
| 生没年 | 文久 2年12月26日 - 大正 2年 9月 2日 ( Feb 14, 1863 - Sep 02,1913 ) | 
| 改名 | 岡倉角蔵 → 岡倉覚三(岡倉天心) | 
| 別名 | 本名:岡倉覚三 | 
| 官位 | |
| 家族 (主な人物) | 父:岡倉勘右衛門(福井藩士のちに貿易商) 母:この 兄弟:港一郎(兄、16際で死亡)、由三郎(弟:英語学者、アーネストフェノロサの助手)、てふ(妹、蝶子) 夫:基子(大岡忠相の末裔) 子:一雄(長男:朝日新聞記者) | 
| コメント | Tenshin OKAKURA:福井藩士だった岡倉勘右衛門の子として生まれました。幼いころから英語に親しみ、東京開成所(東京大学の前身)に入り、そこの教師だったアーネスト・フェノロサの助手になりました。27歳で東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の校長となりましたが、やがて退職。その後は日本美術院を設立し、横山大観らとともに活躍しました。 | 
