会津若松城 Aizuwakamatsu Castle
「戊辰戦争ではひと月にわたる猛攻に耐え続けた。別名を鶴ヶ城という」
戊辰戦争の最大の激戦となった会津戦争では新政府軍の猛攻を1ヶ月耐え続けた。
データDeta /アクセスAccess
所在地 Address | 〒965-0873 福島県会津若松市追手町1-1 |
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交通 | JR会津若松駅より路線バス「鶴ヶ城西口」下車 まちなか周遊バス「ハイカラさん」「あかべぇ」にて「鶴ヶ城入り口」「鶴ヶ城三の丸口」下車 ほか |
公式サイト Official Site |
別名 | 鶴ヶ城、若松城、黒川城 |
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城郭構造 | 梯郭式平山城 |
天守 | ・望楼型7重不明(1593年築) ・層塔型5重5階地下2階(1611年改築) ・RC造外観復元(1965年) |
築城主 | 蘆名直盛 |
築城年 | 1384年 |
主な改修者 | 蒲生氏郷、加藤明成 |
主な城主 | 蘆名氏 伊達氏 蒲生氏 上杉氏 加藤氏 保科氏 松平氏 |
文化財指定等 | 国指定史跡 若松城跡 |
撮影日
2011-08-04
2008-08-03
[ 会津若松城 ]
平成23年(2011)3月に天守閣の改修工事が終了し、リニューアルオープンしました。外観で最も大きく変化したところは、屋根瓦が黒瓦から赤瓦になった点だと思います。往時の姿により近づけたとのことです。
[ 月見櫓 ]
二重の塗込櫓でした。武器が納められていましたが、月見の場所としては絶好の位置にあることから、この名がつけられました。
[ 茶壺櫓 ]
櫓内に重要な茶器が治められていたことからこの名がつけられてました。この櫓の西側の本丸御殿内には茶室「麟閣」が建てられていました。現在、その麟閣は再建されています。また、この櫓は御弓櫓とともに本丸の旧大手門に通じる廊下橋の横矢掛りとしても重要な櫓でした。北側は、高さ約20mの石垣があり、「忍者落とし」とよばれています。
[ 御三階跡 ]
現在ではこのように建物がありませんが、もともとはここに「御三階」なる数寄屋風の楼閣状の建物がありました。戊辰戦争後、取り壊しが行われた際、市内七日町にある阿弥陀寺に移築され、現存しています。
[ 荒城の月碑 ]
名曲「荒城の月」は土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲です。土井晩翠によると、荒城の月はここ会津若松城(鶴ヶ城)と仙台にある青葉城をモチーフに作詞されたとのことです。ちなみに、滝廉太郎によると、かれの出身地である大分県竹田にある岡城をもでるに作曲したといいます。
[ 土井晩翠像 ]
名曲「荒城の月」を作詞した土井晩翠です。この像は昭和22年(1947)に除幕されました。
[ 鐘撞堂 ]
鐘は延享4年(1747)、若松の鋳工、早山掃部介安次等の柵として知られています。解説文によると、「会津戦争(1868)の時には、ここに西軍の砲火が集中し、時守が相次いで斃れたにもかかわらず、開城の最後まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した」とあります。
[ 新島八重 ]
2013年NHK大河ドラマの主人公、新島八重八重子)です。会津藩砲術師範、山本権八の子として生まれました。実兄には山本覚馬がいます。会津戦争がおこった際には、スペンサー銃をとって実戦にも参加しました。会津戦争後は、同志社英学校(同志社大学)の創設者である新島襄と結婚しました。
[ 天守閣 ]
売店出口付近からの撮影。会津若松城と表記していますが、鶴ヶ城の方が一般的。天守閣の高さは石垣上からは約25m、石垣を含めると約36mになります。
[ 茶室「麟閣」入口 ]
茶室「麟閣」とは千利休の子、少庵ゆかりの建物です。利休が死去した時、会津の領主だった蒲生氏郷が少庵を会津にかくまいました。その頃に氏郷のために建てられたものといわれています。
[ 茶室「麟閣」寄付 ]
「寄付」とは、茶会当日の待合場所をいいます。ここで半東から湯を頂戴したり、身支度を整えたりしたのちに茶会に向かうことになります。
[ 茶室「麟閣」腰掛待合 ]
ここも茶会に呼ばれた客人が茶会を待つ場所になります。
[ 茶室「麟閣」 ]
この建物は、茶室および隣接する「鎖の間」の主に二室で構成されています。鎖の間は「蒲鶴亭」という扁額が掲げられています。一切の無駄を省いている茶室と違って、この部屋は装飾することが許されています。
[ 茶室「麟閣」にじり口 ]
にじり口とは、茶室の出入り口です。基本の大きさは縦横二尺二寸といいますからだいたい66cmぐらいです。身分に関係なく、茶室では、身分に関係なく、全ての人が身をかがめて頭を下げながら入室しなければならないという意味があります。
[ 茶室「麟閣」天守閣を借景に ]
ちょうど天守閣が「麟閣」から見えます。建物自体は、戊辰戦争後に茶人森川善兵衛の居宅に移築されて保存されていたのですが、平成2年(1990)に会津若松市の市制90周年を記念して元の場所(当地)に再移築されました。
[ 山本覚馬 ]
山本八重子の実兄。会津藩校の日新館で学び、22歳で江戸に行き、佐久間象山に師事しました。文久2年(1862)、藩主松平容保の京都守護職就任に伴って京都に行きました。その数年後、眼病を患い失明。戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いの後も京都に残り、新政府軍に捕らわれたため、会津戦争には参加していません。
[ 天守閣 ]
戊辰戦争で砲弾にさらされ、傷ついた天守閣はその後明治新政府の命令によって取り壊されました。天守閣の再建が成ったのはその約100年後の昭和40年(1965)です。
[ 西出丸 ]
現在は駐車場になっている西出丸。駐車場は三か所(西出丸・三の丸・南口)あります。
[ 梅坂 ]
西出丸から本丸へと向かうにはこの梅坂をのぼっていきます。
[ 鶴ヶ城の堀 ]
西出丸から南側の堀端を東側に進んでいきます。堀をはさんで写真左が本丸になります。
[ 廊下橋 ]
二の丸と本丸を結ぶ廊下橋。加藤明成による改修工事以前は大手口でした。
[ 廊下橋口 ]
廊下橋を渡って本丸へ行くところは内枡形になっていて、守りが厳重です。石垣が左右にせり出していて、天守閣へ直接行けないようになっています。
[ 伏兵郭 ]
現在はテニスコートになっている伏兵郭は、二の丸の北側に位置しています。
[ 二の丸から三の丸 ]
福島県立博物館がある三の丸と鶴ヶ城の中枢部とをつなぐ通路です。