われらがビザンツ帝国

第4章 9〜13世紀のビザンツ帝国
 前半は帝国の中興の時代。文化が開化、地中海貿易を独占。後半は一転して危機の時代。専制君主制が崩壊。首都は異民族に奪われてしまう。それでも粘るビザンツ帝国は、小アジアに亡命政権を建てて抵抗を続けました。そして、半世紀間の空白の後にビザンツ帝国の復興を果たすのです。

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23 9〜13世紀のビザンツ帝国
 古代ローマ帝国からの完全な脱皮。中世ローマ帝国の誕生。
24 最盛期のビザンツ帝国
ビザンツ帝国が最も輝いていた時期。ヨーロッパもアジアもビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの繁栄にはかないませんでした。
25 最盛期から再び滅亡の危機へ
 一転して滅亡の危機へ。ビザンツ帝国の苦悩は続きます。
26 1071年、二つの大敗戦
 東西同時にもたらされた大敗戦。特に東からもたらされたものは深刻でした。
27 アレクシオス1世の改革
 なぜか、皇帝の権力を弱めることが、逆に帝国の存続をもたらす結果につながっていきます。
28 中世ヨーロッパ世界の台頭
 ヨーロッパが世界進出を一番最初に始めたときに、何があったのでしょうか。
29 十字軍の脱線とコンスタンティノープル攻略
 同じキリスト教国のビザンツ帝国に、十字軍はなぜ、攻撃するという脱線をしてしまったのでしょうか。
30 十字軍の第一の脱線(1204年のコンスタンティノープル攻略)
 コンスタンティノープル攻防戦、第一ラウンド。
31 十字軍の第二の脱線(1204年のコンスタンティノープル攻略)
 コンスタンティノープル攻防戦、第二ラウンド。ビザンツ帝国が滅亡してしまいます。
32 コンスタンティノープル奪回
 復活!われらがビザンツ帝国。


23 9〜13世紀のビザンツ帝国

イスラム勢力のアラブ人を撃退したことで、ビザンツ帝国は危機を脱出しました。この次にビザンツ帝国をおびやかす存在となったのはダニューブ川(ドナウ川)下流域一帯から南下してくる北方諸民族です。そのうち幾度かは、首都コンスタンティノープルが包囲されるに至ったことがありました。特に、813年にブルガール人の大軍に包囲された時には、首都コンスタンティノープルは大恐慌に陥って、陥落寸前までいったといえます。それというのも、まだ約一世紀前に発生したペストによる人口の激減(10分の1になっていた)からなかなか立ち直れずにいたし、さらに二年前には同じくブルガール人との戦争で皇帝ニケフォロス1世(在位802〜811)が戦死し、皇子は重傷を負って首都に逃げ帰るという大敗北を喫して多くの兵士を失っていたからです。
 しかし、8世紀から10世紀にかけては、ビザンツ帝国が少しずつではあるが順調な発展をみせていた時期です。では、どのようにして、最盛期を生み出したのでしょうか。 

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24 最盛期のビザンツ帝国

@ 東方ギリシア人国家の成立
 ペルシア、アラブ両帝国から勝利を勝ち取ったのは聖戦理念が功を奏したからであると先に述べました。これを機会に西方的ローマ的イデオロギーは見直され、代わって東方的なイデオロギーが台頭してくるようになります。すなわち、ビザンツ帝国は、旧ローマ領の再征服よりも残された領土の維持を重要とみなすようになったのです。
 これによってビザンツ帝国の今後の方向性が見い出されてきたといえます。古代ローマ帝国からの最終的な脱皮とそれによって生まれた東方ギリシア人国家の成立。すなわち本当の意味でのビザンツ帝国が成立したことによって政治的にも経済的にも発展をとげるきっかけと土台がつくられたといえるでしょう。
 A 充実していた経済力
 6世紀のユスティニアヌス時代に、中国から蚕をシルクロードを通じて密輸し、それ以来ビザンツ帝国では絹織物産業が発生したという説があります。美しい絹織物は当時の西ヨーロッパでは珍しいもので、帝国周辺の各民族の垂涎の的であったから、ビザンツ側は外交の武器としてこれを大いに活用したそうです。また、当時のビザンツ帝国は、地中海貿易を独占してばく大な富を得ていたばかりでなく、ビザンツ帝国が発行するノミスマ金貨は、常にほぼ純金という高品質を保っていたので、当時の国際通貨として流通していたようなのです。
 このように絹織物産業と地中海貿易で得た富に支えられ、特にこの時期のビザンツ帝国の経済力は大変充実していたといえます。したがって、外交的にも金や絹織物で異民族を従わせることができるだけの国力を持っていたといえるのです。
 B 強かった皇帝権
 同じ頃の西ヨーロッパ諸国と比べてみた場合、当時のビザンツ帝国は皇帝権が非常に強かったといえます。すべての権力が皇帝に集中していたことがうまく機能していたようで、ビザンツ帝国の発展に貢献していたのです。専制君主制度は、古代ローマ帝国特徴的な政治制度でしたが、この制度だけは中世に引き継がれていったのです。
 では、なぜビザンツ帝国は皇帝権が強かったのでしょうか。それは、ビザンツ帝国がキリスト教を国教としており、さらに皇帝教皇主義がみられたために、ビザンツ帝国の皇帝たちは「地上における神の代理者」との位置付けがなされていたからといえます。

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25 最盛期から再び滅亡の危機へ

既にみてきたように、これらの要因に支えられてバシレイオス1世(在位867〜86)から始まるマケドニア朝(867〜1057)のもとでビザンツ帝国は最盛期を迎えることとなりました。軍事力は大いに充実し、イスラムの支配下にあった南イタリアとクレタ島を久しぶりに奪回するとともに、バシレイオス2世(在位963〜1025)のもとで、7世紀以来ビザンツ帝国の北辺国境を常に脅かし続けたブルガリアを滅ぼすことに成功したのです。こうして得た新しい征服地には軍管区(テマ)が導入され、宮廷を中心に古典文化の復興がみられ、帝国には平和がもたらされたのです。
 しかしながら、繁栄の陰で社会の変質は既にはじまっていました。すなわち、小アジア一帯で大土地所有が進展し、帝国の繁栄を支えてきた自由農民が没落していったのです。
 このような農村社会の変化から、ビザンツ帝国の危機が進展していくことになります。大土地所有の進展が特に進んでいったのは、1025年にバシレイオス2世の治世が終わってからで、その後のビザンツ帝国は坂道を転がるかのごとく衰退の一途をたどることとなります。
 11世紀の末、コムネノス朝のアレクシオス1世(在位1081〜1118)のもとで一時帝国の再建がなされましたが、それも束の間で、1204年には首都コンスタンティノープルがヴェネツィアと十字軍に占領されることとなり、そこには新たにラテン帝国が建国されてしまいました。
 しかし、粘るビザンツ帝国の残存勢力は小アジアに逃れて、1261年にコンスタンティノープルを奪回し、ビザンツ帝国を再興することとなり、さらにその後もしばらく存続するのです。

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26 1071年、二つの大敗戦

 バシレイオス2世が再興した帝国と首都コンスタンティノープルは、またも半世紀足らずの平和しか楽しむことができませんでした。1071年に帝国の東西両端からそれぞれ二つの大敗戦の悲報がコンスタンティノープルへもたらされたからです。
 西方からは、4月16日に西欧における最後の足がかりである南イタリア軍管区(ランゴバルディア・テマ)の喪失を意味するバリ市陥落の報告が届いてきました。南イタリアは、地中海中央部という地理的に重要な地域ですし、その上ローマ帝国の発祥の地ですので、戦略的にも精神的にも不可欠な地域でした。そこで、ここには西欧から屈強なノルマン人傭兵を雇って防備にあたらせていました。しかし、この政策が裏目となったのです。なぜならば、ほかならぬこのバリ市を攻撃し、陥落せしめたのは、このノルマン人だったからです。ノルマン人は、しばらくはおとなしくビザンツ軍の指揮下で働いていましたが、1054年の東西キリスト教会の分裂を境にローマ教皇側に接近し、ビザンツ帝国を脅かす存在となってしまったのです。
 こうして、ノルマン人はバリ市を手に入れると、勢いに乗って当時イスラムの勢力下だったシチリア島を占領し、その後ビザンツ帝国を攻略するべくコンスタンティノープルへと矛先を向けることとなるのです。
 しかし、東方からもたらされた敗戦の悲報はさらに深刻で、絶望的なものでした。その事態は、帝国の中枢部であった小アジアに新手の敵であるセルジュク・トルコ族が、たびたび侵入してきてビザンツ帝国の安全を脅かしたことから始まります。しかしながら、この新手の異民族の侵入をビザンツ側としても手をこまねいて見ていたわけではありません。これを迎かえ撃つべく皇帝ロマノス4世(1068〜71)が親征し、彼らの撃退を試みることとなるのです。

【マンツィケルトの戦い、ビザンツVSトルコ】
 1071年、セルジュク・トルコのアルプ=アルスランは、アルメニアに軍隊を集結させていました。しかし、それはイスラム教の異端派であるシリアのファーティマ朝(909〜1171)を最大の敵とみなしており、彼らと戦うつもりだったからです。また、セルジュク・トルコは、ビザンツ帝国とファーティマ朝の同盟を恐れていたのです。しかし、ビザンツ軍がこちらに向かっているとの知らせを聞き、急きょ彼らと戦うために軍を北上させたのです。ただ、セルジュク・トルコ側にとっては予期せぬ敵ですし、さらには兵力で勝り、皇帝自ら陣頭で指揮を取るビザンツ軍に対して、あえて交戦することを拒んだようなのです。こうしてセルジュク・トルコ軍は和議を申し出たのですが、ロマノスはこの和議を無視して開戦に踏み切っりました。
 1071年8月19日のことです。ロマノスは、マンツィケルト町近くの狭い谷の中で、自分が近くのアクラート要塞守備のために派遣していた傭兵の主要部隊と合流するために待機していました。しかし、そこにセルジュク・トルコ軍が奇襲してきたのです。
 こうして、マンツィケルトの戦いは始まりました。初めは、突然皇帝軍に襲いかかってきた敵に対してロマノスも奮闘しました。さらに、こうして持ちこたえていた一方で、味方の部隊がもう少しで合流できるところまでやってきたのです。しかし・・・・・・
 なんと、彼らは戦闘に加わらなかったばかりでなく、寝返ってしまったのです。なぜなら、救援に駆けつけた部隊は、敵部隊と同じトルコのクーマン族の傭兵だったからです。さらに、他のビザンツの傭兵隊も戦闘に加わらなかったり、寝返ったりしたのです。
 こうして、皇帝は捕虜となり、マンツィケルトの戦いはビザンツ軍の大敗北という結果に終わったのです。

 このようにマンツィケルトの戦いは、ビザンツ帝国軍は、士気の低い傭兵に頼っていたために、戦闘中に寝返りが相次いだことが敗因といえるでしょう。では、なぜこのように士気の低い傭兵がビザンツ軍の主力をなしていたのでしょうか。
 それは、以前にも述べましたが、農村社会の変化が挙げられます。すなわち、大土地所有の発達です。大土地所有が発達していったのは、帝国の繁栄を陰で支えてきた自由農民が、兵役から逃れるために一部の富農のもとへ小作農として取り込まれていった事が原因です。ビザンツ帝国は、それまで農民から徴兵していたため、有事の際は士気の高い農民軍を確保することができていました。しかし、自由農民の没落は、兵力の確保を困難なものにしたばかりでなく、大土地所有者が地方の有力な貴族となってビザンツ帝国の政治に干渉するようになっていったのです。またこの時期は、テマ制度が崩れつつあったために、彼らの台頭を助長することにもなりました。こうして、士気の高い農民兵を確保することが困難となってしまったために、やむなく傭兵に頼ってしまうことになったのです。
 また、このような社会の変化は、建国以来専制君主制を維持してきたビザンツ帝国が封建的社会へと変化することへとつながっていきます。もはや、こうして台頭してきた地方貴族との提携なしでは、帝国の維持ができなくなってしまったのです。
 このような状況を、いちはやく帝国の経営に利用した名君がいます。コムネノス朝の創始者のアレクシオス1世(在位1081〜1118)は、彼ら地方貴族と提携することによって宮廷の内紛を静めることに成功して、1081年に帝位につくと帝国の再建をはかったのです。

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27 アレクシオス1世の改革
 
@ プロノイア制の導入
 アレクシオスは、貴族勢力に対し軍事奉仕を条件に公有地の管理を任せるプロノイア制を導入した。これによって、帝国の封建化はすすんだが、貴族連合体制のもとで国内は安定することになりました。中央集権国家という伝統を捨てて、王権を弱めることが、逆に帝国の存続につながったわけです。
A 対外対策
 もはや、西のノルマン人に対しても東のセルジュク・トルコに対しても、瀕死の状態にあったビザンツ帝国を見事に立て直してみせたアレクシオスの手腕をもってしても、ビザンツ帝国独自の力で侵入してくる敵を破ることはできませんでした。
 そこで、西のノルマン人にはヴェネツィアの力を借りることにしたのです。ヴェネツィアとビザンツの海軍は、まもなく彼らをアドリア海から撃退することに成功しました。しかし、その代わり、ヴェネツィアにビザンツ領の都市で自由に商業行なうことができる特権を与えたのです。これによって、ビザンツ帝国内の商業は衰退していきました。これは後に、首都コンスタンティノープルでは反ヴェネツィア、反外国人感情の高まりを招くことにつながりました。
 また、東から攻めてくるセルジュク・トルコに対してはヨーロッパに援軍を頼むことにしました。これは、ついに西ヨーロッパがビザンツ帝国を中心とする東ヨーロッパに対して政治的経済的に優位に立ったことを示すものであるといえます。それと同時に、1054年以来、完全な分離をして別々の道を歩みつつあった東西の教会(ローマ・カトリック教会とギリシャ正教会)において、ローマ・カトリック教会がギリシア正教会に対して優位を示す絶好の機会を与えてしまったといわざるを得ません。現に、アレクシオスの援軍要請をききつけてやってくることとなる十字軍は、最初ローマ教皇主導のもとに組織、派遣されるのです。

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28 中世ヨーロッパ世界の台頭 〜十字軍誕生の背景〜
 
 7、8世紀以来、西ヨーロッパはイスラム勢力、マジャール人、ノルマン人らの侵入を受け止めるのが精一杯で、いわば封じ込められた態勢にありました。しかし、11世紀末になってようやく封建社会の基礎が固まって内部の力が徐々に充実してくると、対外発展の気運が高まってきました。こうして、初めて西ヨーロッパは全体的守勢から大規模な攻勢へと転じることができるようになったのです。このように、西ヨーロッパでは対外遠征軍派遣の土台が、アレクシオスから救援を求められた頃にちょうど完成していたのです。
 では、なぜ十字軍派遣はローマ教皇が強くおしすすめたのでしょうか。それは、教皇権が最も強大であった時期だったからでしょう。それと同時に、1054年以来分裂していた東西両教会を、西方教会主導のもとで再び統一させようというローマ教皇の意図があったと思われます。その理由のひとつに、この意図がローマ教会にとって一石二鳥のものだったことがあげられます。
 それは、ローマ教会がゲルマン民族の好戦的態度に悩まされ続けていたことに端を発します。ゲルマン民族はもともと好戦的で、彼らの慣習では紛争解決の手段として暴力の行使が公式に認められていたほどなのです。復讐権、自己救済権といった独自の権利がこれにあたります。ローマ教会はこれの制限に努めたが、なかなか効果は上がらなかったようです。そればかりか、いつ暴力の矛先がローマ教会側に向けられるとも知れなかったのです。このような折に、東側から救援の依頼を受けたのです。そこで、ローマ教会は戦争や暴力の情熱をそらせるために十字軍を組織させ、東教会の権威を失墜させると同時に、彼らの目を異民族へと向けさせ、二重の利益を得ようとしたのです。
 しかし、もともと平和の使徒であるはずのキリスト教会が十字軍遠征のような戦争を肯定したのはなぜかという疑問が浮かびます。しかし、その答えはローマ教会自身の変化にあるでしょう。すなわち、ゲルマン民族がキリスト教を受け入れてローマ教会と融合するなかで好戦的態度を和らげていったのと同時に、ローマ教会がゲルマン民族の影響を受けて戦闘的な教会へと変化していったということです。
 このような社会背景に支えられて、ビザンツ帝国の援軍要請に対して、アレクシオスの予想を上回る大規模な遠征軍が組織されました。こうして考えると、ローマ教皇ウルバヌス2世(在位1088〜99)がクレルモン公会議において、十字軍派遣の呼びかけをしたのに対して大反響があったのも分かります。十字軍派遣の直接的原因は、セルジュク・トルコのパレスチナ占領によって聖地への巡礼が妨げられたことですが、ローマ教会側にしてみれば、大した問題ではなかったのかもしれません。それでも、当初は宗教的情熱から十字軍が組織、派遣されたということも事実なのですが。 しかし、十字軍自体の資金面での行き詰まりや、その他さまざまな要因が影響して、十字軍は回数を重ねるうちに当初の目的からはずれていくのです。そして、ついには同じキリスト教国家のビザンツ帝国に矛先を向け、首都コンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国(1204〜61)を建国することになるのです。

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29 十字軍の脱線とコンスタンティノープル攻略 〜十字軍の脱線の始まり〜
 
 十字軍が遠征の目的地であるエジプトへ向かうことなく、ビザンツ帝国へやってきて、事の成り行き上コンスタンティノープルを攻撃し占領することになってしまった、いわゆる第4回十字軍の脱線のきっかけについては、様々な要因が存在しており、それが複雑に絡み合っています。しかし、少なくとも1203年とその翌年の二度にわたるコンスタンティノープル攻防戦のうち、前者の方は政変によって廃されたビザンツ皇帝イサキオス2世(在位1185〜95)の息子である小アレクシオス(後のアレクシオス4世)の指図によるものだったのです。

 事の発端は、ビザンツ帝国の宮廷で起こったお家騒動です。
 ビザンツ帝国の帝位継承の原則は必ずしも世襲制度ではありませんでした。帝位の維持は皇帝自身の能力にかかっていて、無能であったり、あるいは強力なライバルの出現によって帝位を奪われた場合も少なくなかったのです。特にビザンツ帝国は、宮廷の内紛が当然のように起こっていたのです。こうして、暴力的政変によって、皇帝のイスを追い出されれば、死刑となるか、古代ローマから受け継いだ風習にのっとって両眼をえぐりぬかれ
るなどの残酷な刑を受けたあと、幽閉されるか追放になっていたのです。皇帝イサキオス2世が1195年に体験した悲運もこれでした。
 皇帝イサキオス2世は、実弟のアレクシオスによるクーデターによって帝位を奪われ、さきに述べたような刑を受けて幽閉されたのです。これによって、アレクシオスはアレクシオス3世(在位1195〜1203)として即位することとなりました。また、廃帝イサキオス2世の息子である小アレクシオスも父とともに幽閉されてしまったのです。
 しかし、1201年末に小アレクシオスは亡命に成功し、ドイツ皇帝ハインリヒ6世の弟であり、義兄のフィリップ・フォン・シュヴァーベンのもとに身をよせたのです。フィリップは彼を歓迎し、ともにいた十字軍指揮官のピエモンテ辺境伯ボニファチオ・ディ・モンフェラに引き合わせ、そこで小アレクシオスがアレクシオス3世から帝位を取り返したいと訴えると、二人とも援助することを約束したのです。

 ところが、十字軍の方も資金面で行き詰まっていました。第3回の十字軍遠征の時に、リチャード1世(獅子心王、在位1189〜99)はエジプトこそイスラム帝国の弱点と指摘していたので、今回の第4回遠征も攻撃目標はエジプトと決まっていましたが、ビザンツ帝国が衰えていったことによって、バルカン、小アジア経由の陸路を断念し、地中海経由の海路を採用したのです。そこで、海上輸送をその分野で一流のヴェネツィア共和国に頼むことにしましたが、その報酬を彼らに支払うだけの資金が足りなかったのです。

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30 十字軍の第一の脱線(1203年のコンスタンティノープル攻防戦)

 十字軍の資金不足の深刻さは、彼らに第一の脱線をもたらすことになります。ヴェネツィアはダルマティア(アドリア海東岸)の支配をめぐってハンガリーと敵対関係にあり、その中心都市であるザラも最近敵の手に落ちていました。そこで、十字軍に対して、これ以上支払いを先送りするならば配船を打ち切ると脅しをかけてザラ攻略をけしかけたのです。結果として、ザラは十字軍によって攻略されましたが、それでも聖地、そしてエジプトへ向かうだけの資金は得られませんでした。
 そこで、十字軍は、ヴェネツィアの助言により、小アレクシオスの帝位奪回を助け、彼から報酬を受け取ることにしたのです。また、ヴェネツィアにも独自の戦争目的がありました。それは、十字軍を利用して、コンスタンティノープルに自分たちの思い通りになる政権を作ろうとしていたのです。
 こうして、小アレクシオスと十字軍との間に交わされたザラ協定によって、ビザンツ帝国が十字軍のヴェネツィアに対する負債を肩代りする事、十字軍遠征の援助費用を負担する事、ビザンツ軍から一万名の増援軍を送る事などが決められました。これによって、十字軍はコンスタンティノープル攻略という二重の脱線をすることとなったのです。
 1203年6月24日、コンスタンティノープルに、ヴェネツィアの艦隊が到着しました。ここに、コンスタンティノープル攻防戦が開始されたのです。しかし、守備側のアレクシオス3世は充分な迎撃態勢を整えていませんでした。難攻不落の大城壁を擁しての安心感がそうさせたのかもしれません。しかし、ヴェネツィアの大型ガレー船は海の城壁に迫るほどの高さを持っていました。そこで、攻め手側は船を城壁に横付けし、そこから市内へ侵入する作戦を取ったのです。また十字軍も陸上から絶え間なく攻撃を繰り返し、戦況はビザンツ帝国不利に傾いていきました。守備側は徐々に戦意を失ってゆき、アレクシオス3世もいちはやく防衛を断念し、持てるだけの財産を持ってトラキアへと逃亡してしまいました。
 そこで、アレクシオス3世によって幽閉されていた廃帝イサキオスは、ただちに城外の十字軍へ使節を送って小アレクシオスと彼らを迎え入れました。こうして、小アレクシオスはアレクシオス4世(在位1203〜04)として父であるイサキオス2世とともに共同皇帝となったのです。

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31 1204年のコンスタンティノープル攻略

 1203年に起こった政変はこうして幕を閉じましたが、それはわずか一年後にコンスタンティノープルが征服されるというビザンツ帝国最大の危機に直面する前哨戦でしかなかったのです。これによってビザンツ帝国は一時中断し、コンスタンティノープルには新たにラテン帝国が建国されるのです。
 さて、イサキオス父子は十字軍の介入によって、念願の王位奪回を果たしましたが、ザラ協定で支払うこことなっていた約束の報酬を出し渋っていました。それというのも、国庫には元々それだけの財産がなかったからです。そこで、コンスタンティノープル市内に十字軍専用の居住区を設けてしばらく報酬の支払いを待ってもらうことにしました。しかし、十字軍はその弱みにつけこんで様々な優遇を要求したのです。そのため、コンスタンティノープル市民は、十字軍に対して不満が募るようになってくるのです。
 彼らの不満が爆発するのは時間の問題でした。十字軍が略奪から火災を引き起こしたのです。これによって、コンスタンティノープルの東半の大部分が焼け落ちたのでした。そして、これは十字軍によるコンスタンティノープル征服の引き金となりました。
 事件の発端は、法的保護を受けて平和な共存生活を送っていたイスラム教徒移民が十字軍に攻撃されたことでした。イスラム教区の住民は、近隣のギリシア人市民の協力を得て、自衛のために必死に抵抗しましたが、十字軍が火を放つとモスクは焼け落ち、折からの北風にあおられて火災は手のつけようがないほど燃え広がってしまったのです。しかし、十字軍にしてみればこのようにイスラム教徒と共存生活を送っていたコンスタンティノープル市民が不可解に思えたかもしれません。なぜなら、西欧人は、単純にイスラム教徒を撃滅すべき敵とみなしていたからです。このコンスタンティノープル大火災事件も、十字軍にとってはイスラム教徒をかばって抵抗したギリシア人市民の責任だと感じたかも知れません。彼らにとって、こういう不可解な一面を持つ東方キリスト教徒(ビザンツ帝国の国民)が徐々に敵と思えてきたのです。
 コンスタンティノープル全市にわたって、この事件をきっかけに西欧人排外運動が展開され始めましたが、まもなくその反感が十字軍に支えられて彼らに優遇政策ばかりをするイサキオス父子に向けられました。とりわけ市民がザラ協定によって多額の報酬を彼らに支払う約束をしているとの内容を知ると怒りは頂点に達しました。まもなく、再びクーデターが起きてイサキオス父子は殺されてしまいました。こうして、1204年1月に新皇帝アレクシオス5世(在位1204)が即位したのです。
 十字軍は、このクーデターによって約束の報酬を受ける望みが完全に失われてしまったのを悟ると、コンスタンティノープルそのものを征服することにしました。こうして、1204年のコンスタンティノープル攻防戦が開始されるのです。
 今度の攻防戦は海の城壁に集中されました。ヴェネツィアのガレー船に乗り込んだ十字軍は、船を城壁に横付けしてそこから市内に侵入していったのです。皇帝アレクシオス5世は、いちはやく夜の闇に紛れて逃亡してしまいました。徹底抗戦派の人々は新たにくじ引きでコンスタンティノス・ラスカリスを皇帝にしましたが、彼も翌朝早くに逃亡してしまったのです。彼が逃亡した後は、もう皇帝を名乗る者はいませんでした。ここにコンスタンティノープルは陥落したのです。
 コンスタンティノープルには、新たに十字軍とヴェネツィアによってラテン帝国が建国されました。同時に、ビザンツ帝国は滅亡したかに思えました。しかし、粘る彼らは小アジアに亡命政権を樹立し、抵抗を続けるのです。

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32  コンスタンティノープル奪回

 小アジアに逃れたコムネノス家の皇族はそこに亡命政権を樹立して抵抗を続けました。トレビゾンド帝国およびニカイア帝国などです。その中でもニカイア帝国は最も強大で、ラテン帝国の無力さにも助けられて1261年にコンスタンティノープルを奪回することになります。
 ビザンツ帝国が、なおも抵抗を続けることができたのはなぜでしょうか。それは、ビザンツ帝国が封建的な社会へと変化していたからです。初期ビザンツ帝国のように中央集権国家であったら、首都の陥落によって半ば同時に残る領土も併合されていたと考えられます。しかし、封建的国家へと移行するうちに小アジアをはじめとする地方の力が強まっていったために、ラテン帝国もコンスタンティノープル周辺のビザンツ領の征服に予想以上に苦戦を強いられたのです。こうして、ビザンツ帝国は亡命国家を樹立することができたのです。
 ニカイア帝国最初の皇帝は、テオドロス1世ラスカリス(在位1204〜22)です。彼は就任演説の大部分で、ビザンツ帝国の皇帝はコンスタンティノープルにいるラテン帝国皇帝ボードゥワン1世(在位1204〜05)ではなく自分であると主張しています。また、コンスタンティノープルを自分達から奪った者達に対して復讐をすることを誓っています。こうして、愛国派貴族のリーダー的存在となった彼は、他のビザンツ帝国の亡命政権の糾合を開始したのです。
 首都を失った彼らは、今まで以上にローマ帝国理念を主張しました。ローマ帝国の正統継承者である我々は、いつの日かコンスタンティノープルへ帰らなければならないと主張したのです。しかし、ローマ帝国理念というのは基本的には支配者のイデオロギーであって、民衆の支持を得るのは困難でした。そこで、テオドロスは自らを、エジプトで囚われの身になっていたユダヤ人を解放したモーセたとえたのです。首都を失い、小アジアのニカイアの地にある帝国の民を連れて、もう一度コンスタンティノープルに帰ると主張したのです。こうした宗教イデオロギーと結び付いたローマ帝国理念は、民衆の愛国心をかきたてることになりました。
 また、このようなイデオロギーを主張する一方で、政治、経済両面でもニカイア帝国は順調な発展を見せます。
 @ 政治面
 ニカイア帝国の政治制度でビザンツ帝国と全く異なっていたのは封建制だったということです。ビザンツ帝国では、領土は全て皇帝のものという考えが基本的でしたが、ニカイア帝国では地方の有力貴族にその地方の統治権を認めていたのです。このように、ニカイア帝国は地方貴族との提携を行なうことによって政治的基盤を確立していたのです。
 A 経済面
 地方貴族に統治権を与えていたうえに、ニカイア帝国では彼らに免税の特権を与えていました。しかし、それでは国家の歳入源がないことになります。実は、ニカイア帝国の歳入を支えていたのは皇帝直轄領からの収入でした。また、軍事奉仕と引き替えに直轄領を貸し与えてたりもしていました。これを、プロノイア制度といいます。アレクシオス1世以来、ビザンツ帝国の封建化が進みましたが、その時と同様に、ニカイア帝国でも貴族連合体制のもとで国家は安定したのでした。

 このようにしてニカイア帝国が順調は発展をみせていた一方で、ラテン帝国の国力はふるいませんでした。ビザンツ帝国の弱体化によって再びスラヴ民族の動きが活発となっていた中で、彼らと抗争を繰り返さなければならなかったうえに、ニカイア帝国の勢力が及んできたからです。
 こうして、1261年にニカイア帝国はコンスタンティノープルを奪回することに成功しました。

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