われらがビザンツ帝国

第3章 6〜8世紀のビザンツ帝国
ペルシアやイスラムといった異民族・異教徒の侵入がもたらした絶体絶命の危機をビザンツ帝国は如何にして退けることができたのだろうか。ゾロアスター教をひっさげるペルシアやイスラム教を擁するアラブ勢力の侵入による危機。しかし、ビザンツ帝国にはキリスト教があります。宗教イデオロギーの対立と戦い。これが6〜8世紀のビザンツ帝国です。古代ローマ帝国から中世ビザンツ帝国への脱皮もこの時期になされました。

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12 ユスティニアヌスは名君か?暴君か?
 最盛期の皇帝といわれているユスティニアヌスは、実はただの野心家だった!?
13 競馬場から起こった反乱
 皇帝の座を追われてしまうよりも、皇帝のまま死んだほうがまし!(テオドラ)
14 最盛期から滅亡の危機到来までたったの半世紀
 ユスティニアヌス帝の死後は異民族の侵入が相次ぎます。
15 ササン朝ペルシアの侵入
 ササン朝ペルシアがビザンツ領内に侵入し、各地の都市を荒らし放題。
16 ペルシアとの戦争準備
 国民も教会もペルシアとの決戦に備えて、皇帝ヘラクレイオスに協力しました。
17 聖母マリアの加護を得て
 コンスタンティノープルの大城壁に挑んできたペルシアとの戦い。
18 ヘラクレイオスの勝利
 ヘラクレイオスのペルシア遠征は大成功に終わりました。
19 イスラム勢力アラブ人の侵入
 苦労して撃退したペルシアでしたが、イスラムはそれよりはるかに強かった。
20 新兵器「ギリシアの火」
 イスラム勢力を撃退したのはまたも大城壁、そして「ギリシアの火」でした。
21 テマ制とペストと大城壁、不滅のビザンツ帝国
 イスラムの総攻撃も大城壁の堅塁を前になすすべがありませんでした。
22 聖戦理念の成立
 ビザンツ帝国の強さの秘訣が分かります。


12 ユスティニアヌスは名君か?暴君か?

 6世紀の前半はビザンツ帝国が攻勢に転じた時期です。この時期は、皇帝ユスティニアスの野望、すなわち古代ローマ帝国の復興という野望の実現のために、侵略戦争を積極的に行ないましたが、それは多大な成果をあげたのです。財務長官ヨハネスや法務長官トリボニアヌス(『ローマ法大全』の編纂者でも有名)らの強力なブレーンに囲まれた皇帝ユスティニアヌスのもとで、ビザンツ帝国はヴァンダル・東ゴートの両王国を滅ぼし、イタリア、アフリカおよび現在のスペインがあるイベリア半島などの旧西ローマ帝国領をことごとく奪回し、その最大版図を形成したのです。また、首都には栄光の象徴である壮麗な聖ソフィア大聖堂が建立されました。この時期がビザンツ帝国の最盛期だということはよく言われていることです。
 しかし、この時代が本当にビザンツ帝国の最盛期といえるのでしょうか。実は少し疑問が残ります。ユスティニアヌスは相当無理をしてまでも自分の野望を実現させたに過ぎません。ビザンツ帝国には領土を拡張できるだけの力が本当にあったとはいいがたいのです。

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13 競馬場から起こった反乱

 ユスティニアヌスの野望は国の財政を圧迫し、国民生活を苦しめました。聖ソフィア大聖堂をはじめとする巨大建造物の建設資金とローマ帝国の復活の名のもとで行なわれた大規模な遠征軍の費用とを想像しただけで国民の負担の重みが理解できます。そして、こういった重税という国民へのしわよせは住民の暴動という事態をもたらすことになったのです。
 532年1月、都の競馬場から始まった市民の暴動、ニカの乱はたちまち全市にわたる大暴動へと発展しました。市民たちは、財務長官ヨハネスや法務長官トリボニアヌスらの解任を要求して戦い、ついにはユスティニアヌスに代わる皇帝を立てたのです。皇帝ユスティニアヌス事態を絶望し、一度は皇帝の座をあきらめて逃亡を決意しました。しかし、皇妃テオドラの説得によって思いとどまり、将軍ベリサリウスらの活躍によって暴動の鎮圧を成功させました。
 ニカの乱を鎮圧し、地中海を「われらの海」とする古代ローマ帝国の復興を一時的に復活させたユスティニアヌスは確かに評価できます。しかし、やはり古代ローマ帝国の復興という事業自体が実はその後のビザンツ帝国に危機をもたらすものであったといわざるを得ません。古代の復興という時代に逆行する行為がいかに愚かしいものであったか。それは、ユスティニアヌスの死後(565)のビザンツ帝国の運命を見ていけば明らかです。

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14 最盛期から滅亡の危機到来までたったの半世紀

 ユスティニアヌスの後を受け継いだユスティヌス2世(在位565〜578)やティベリウス2世(在位578〜582)らは539年以来断続的に侵入を繰り返すアヴァル族などの新手の遊牧民に対して、何ら有効な対策を講じることができませんでした。さらに、彼らの侵入に加えて、7〜8世紀にかけてはビザンツ帝国の存亡を左右するほどの強敵のペルシア、アラブ両帝国がコンスタンティノープルの大城壁に挑んでくることになります。最大版図を出現させたユスティニアヌスの死からわずか半世紀足らずで、ビザンツ帝国は何と滅亡の危機を再び経験することになりました。
 しかし、ビザンツ帝国はその危機も乗り越えてしまうのです。では、なぜビザンツ帝国は滅亡の危機を乗り越えることができたのでしょうか。

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15 ササン朝ペルシアの侵入

 ペルシアは、もともとローマ帝国のライバルでしたが、6世紀末ごろはこの国も内乱に悩んでいました。しかし、ようやくホスロー2世(在位590〜628)が統一者となり、やがて勢いに乗ってビザンツ帝国へ攻め込んでくることになります。
 ササン朝ペルシアの侵入を迎かえ撃ったビザンツ皇帝はヘラクレイオス1世(在位610〜641)です。しかし、ヘラクレイオス即位当初のビザンツ帝国は絶望的な状況にありました。ユスティニアヌス時代に西方へ領土を広げていった結果、おろそかになっていた東方国境の危機がちょうどその頃に現実のものとなってきたのです。
 613年、ビザンツ軍は宿敵ペルシアと対戦して大敗を喫してしまいます。その結果、シリアやパレスチナなどの東方諸州がペルシアに占領されてしまいました。シリアはシルクロードの西の端にあたる東西貿易の拠点であり、この地方を占領されたビザンツ帝国の経済的な打撃は大きいものでした。また、パレスチナを失い、エルサレムが占領されたことによって、コンスタンティヌス1世が建設した聖使徒教会が破壊されたうえに、そこに納められていた聖十字架が奪われてしまったのです。聖十字架とは、キリストが磔にされた時の実際の十字架といわれているもので、それを異民族に奪われたことで、ビザンツ帝国をはじめとするキリスト教世界は多大な精神的打撃を被ったと考えられます。さらに、615年にペルシアはコンスタンティノープルからボスフォロス海峡をへだてて対岸にあるカルケドンを占領し、コンスタンティノープルの城壁突破の機会をうかがい始めたのです。さらにその翌々年に、ペルシアはエジプトを襲って、大開港都市アレクサンドリアを占領したので、コンスタンティノープルは大恐慌に陥ってしまいました。それもそのはずで、首都コンスタンティノープルをはじめとするヨーロッパ側の消費都市の食糧のほとんどは、エジプトで生産された後にアレクサンドリアを経由して輸入されていたからです。

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16  ペルシアとの戦争準備

 ヘラクレイオスに課せられた使命とは、なによりも先ずコンスタンティノープル市民の生存と安全を保障することでしたが、そのためにも現在ペルシアに占領されている地域を取り戻すことが不可欠でした。そこで、ペルシア遠征軍を組織することにしましたが、肝心の軍資金がありません。そのため、先ず、その資金調達から始めなければならなかったのです。
 軍資金調達のためにヘラクレイオスが先ず最初に行なったことはコンスタンティノープル市民へのパンの配給の停止でした。これは穀倉地帯のエジプトを失ってしまったからだとして強い抵抗はありませんでした。さらに、ヘラクレイオスは教会財産に目をつけました。当時国庫は空に近い状態でしたが、教会は豊富な財産を所有していたのです。教会財産を軍資金に充てることができたのは、ペルシアとの戦いが、キリスト教を異民族の侵略から守り、現在ペルシアに奪われている聖十字架の奪回を目的とする聖戦だとされたことが挙げられます。
 ともあれ、このようにして総主教セルギオスの協力を得たヘラクレイオスは、622年にペルシア遠征に出発しました。

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17  聖母マリアの加護を得て

ヘラクレイオスが黒海東岸において作戦を展開中の626年、ペルシアとペルシアと同盟を結んだアヴァル族がコンスタンティノープルの城壁に挑んできました。10日間にもわたる包囲戦が展開されたが、ヘラクレイオスに代わって留守をあずかっていた総主教のセルギオスは、マリアのイコンを持って大城壁の上を歩き、守備兵を激励したといわれています。
 また、629年の包囲戦ではペルシアの本隊がカルケドンに居すわったまま、今度はアヴァル族がコンスタンティノープルの城壁に挑んできました。しかしながら、大城壁に守られた守備側の兵士達は、6月末から1ヵ月余の包囲攻撃の末、8月2日から7日にわたって繰り返されたすさまじい肉迫攻撃を辛うじて退けたのです。

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18 ヘラクレイオスの勝利

 627年、ヘラクレイオスは敵中突破を試みて、遠くペルシア帝国の心臓部になぐりこみをかけることに成功しました。
 ヘラクレイオスは、アルメニアを奪いアゼルバイジャンを征服した後に12月にはニネヴェでペルシア軍を撃滅し、翌年の早春にはティグリス川を下ってホスロー2世がいる都クテシフォンに迫るほどの反撃をみせたのです。危機に陥ったペルシア側の宮廷ではクーデターが起き、新国王カワードはヘラクレイオスと和議を結びました。
 ビザンツ帝国との決戦に破れたササン朝ペルシアはその後20年余で滅亡し、古代以来数世紀にわたる対抗関係はあっけない幕切れを迎えますが、ほかならぬこのササン朝を滅ぼしたアラブ人こそ、ビザンツ帝国の最大、最強の敵となる運命をになって次の舞台に登場する相手役なのです。

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19 イスラム勢力アラブ人の侵入

 ペルシア人の侵入による帝国の危機は、ヘラクレイオスによってさけられました。こうして国民が喜びにわいていた中では、遠くアラビアで新興のイスラム教をひっさげて破竹の快進撃を続けていたアラブ人が、ビザンツ帝国にまで及んで危機に陥れようとしているとは全く考えられていませんでした。しかし、実はこのアラブ人による征服は、すでにヘラクレイオスの生存中から始まっていたのです。
 すなわちそれは、ヤムルークの戦いでのビザンツ軍の敗北(637)のことです。ヘラクレイオスはようやくペルシアとの戦いに勝利したばかりで、アラブ軍に立ち向かうだけの余力はなかったのかもしれません。ともあれこの決戦の勝利をきっかけにシリア、パレスチナ、エジプトをまたたく間に占領したアラブ人は、その地域の先住民を使って艦船を建造し、地中海へと乗り込んでくるようになってきたのです。制海権をおびやかされはじめたビザンツ帝国は、655年、皇帝コンスタンス2世(在位641〜668)自らが海戦を挑みましたが、結果は伝統あるビザンツ海軍のはずが、生まれたばかりのアラブ海軍に対して、大敗北を喫してしまったのです。まもなく、シリアのアラブ総督ムアーウィヤは、ダマスカスでウマイヤ朝(661〜750)を建国し、その矛先を確実にコンスタンティノープルへと向けはじめたのです。

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20 新兵器「ギリシアの火」

 ウマイヤ朝ムアーウィヤ1世(在位661〜680)の将軍ファダラスは、陸海の精鋭をひきいて674年から678年まで足かけ5年間にもわたってコンスタンティノープルを包囲しましたが、これを迎かえ撃ったビザンツ皇帝コンスタンティノス4世(在位668〜685)は、大城壁の修復と補強につ努め、あわせて強力な艦隊を編成するなど万全の防備を行いました。しかし、前回のササン朝ペルシア同様アレクサンドリア占領後の首都包囲というパターンでは、コンスタンティノープルに大恐慌をもたらさずにはいられなかったのです。また、破竹の勢いと必勝の決意に燃えて5年も包囲を続けるアラブ人を撃退することは大変困難だったのです。
 ようやく678年になってビザンツ軍はアラブ軍を撃退し、危機を脱出するのですが、この時にビザンツ帝国に勝利をもたらしたのが新兵器「ギリシアの火」です。ギリシアの火は、半ば伝説的な人物ですが、シリアから亡命してきたギリシア人のカリニコスと呼ばれる建築家が、海戦に艦上から使用する火炎放射兵器の原理と設計図を伝授したことが起こりということです。ギリシアの火の威力は、海上でも燃え続けて木造の船体を焼き打ちにすることができたという点で画期的なものでした。
 ギリシアの火によって駆逐されたアラブ海軍と、大城壁の堅塁を前になすすべを持たなかったアラブ陸軍は、678年についに撤退を余儀なくされ、ビザンツ帝国と30年間の休戦協定を結んだのです。

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21 テマとペストと大城壁、不滅のビザンツ帝国

 ビザンツ側はこの休戦期間も防備を怠りませんでしたが、ヘラクレイオス朝が絶系してレオン3世(在位717〜741)がイサウリア朝を創始する頃までには、外敵の侵入に対応する効果的な防衛制度の「軍管区」(テマ)制度の全国的施行がみられるようになりました。この制度は、主として小アジアやエーゲ海沿岸地方など異民族の侵入を被りやすい地域や彼らとの係争地に軍管区をもうけ、各軍管区の軍司令官にそこに常駐している軍隊に対して本来の軍指揮権を持たせるのと併せて、その地域の行政権を委ねるというものです。
 簡単にいえば、土地を支給する代わりに、防衛をもさせるということです。
 この制度はヘラクレイオスが創始したともいわれ、別の説では6世紀にペルシア人が採用したものをビザンツ帝国がまねてユスティニアヌスのもとで発足したともいわれていますが、いずれにしてもアラブ人の脅威を目前として、ビザンツ帝国の滅亡だけは避けられるようにと国民が受け入れざるを得なかったため、この時期に普及徹底されたようです。このようにして、軍備と軍事制度を充実させたビザンツ帝国は、再びコンスタンティノープル攻略を目的としてやってくるアラブ人を見事撃退することになります。
 688年に更新した休戦協定の期限が切れる717年8月に再び第7代カリフのスライマーンがコンスタンティノープルを包囲するべく、大軍を発して襲ってきました。これを迎かえ撃った皇帝は、先に述べた、イサウリア朝の創始者レオン3世です。レオン3世のもと、コンスタンティノープル市民は攻撃を約1年間も耐え抜きました。しかし、今回のアラブ軍はなんとしてもコンスタンティノープルを攻略するべく、大城壁をにらんだまま越冬を試みました。しかし、兵糧の補給路を絶たれて寒さと飢えに苦しみ、その上718
年には市の内外にペストが大流行して敵味方ともに多数の犠牲者を出したのです。
春になって送られた援軍は、コンスタンティノープルにたどり着く前に、小アジアのテマ軍団に撃退され、アラブ側は苦境に陥ってしまいました。大城壁の堅塁を前にして陸からの城壁突破をあきらめたアラブ軍の頼みは、比較的城壁の高さが低い海からの城壁突破でしたが、ここでも金角湾の入り口に設けられた鉄鎖に阻まれ、湾内に侵入することなく1800隻のアラブの軍艦はことごとくギリシアの火に焼かれては沈没していきました。
 718年、スライマーンが病死し、代わってウマルがカリフに立つと、このような不利な戦況をみて、コンスタンティノープルの包囲を解除し、ついに「ウマルの和」と呼ばれる講和を結びました。これによって、ビザンツ帝国はアラブ人の脅威から免れることができたのです。                      

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22 聖戦理念の成立

 ペルシアとの戦いの時も少し触れましたが、ペルシアの場合もアラブ人の場合も、ビザンツ帝国の反撃には新しいイデオロギーが伴っていました。すなわちそれは聖戦理念です。但し、イスラム教における聖戦とは意味が違います。イスラム教における聖戦とは、イスラム教を広く世界に拡げるための手段ですが、ここでいう聖戦とはキリスト教を異教徒から守るための戦いのことです。
 東方の民族的伝統は西方のそれとは異なるもので、ただでさえローマを失って久しい状況のもとで、この時期になるとかつてのユスティニアヌス時代のようなローマ帝国理念が、東方世界に受け入れられることが困難となっていたようです。かつての西方的なイデオロギーのもと行われた旧ローマ帝国領の奪回によって招かれた今回の危機は、帝国のそれまでのイデオロギーに反論を投げかけるきっかけとなりました。以後、こうして生まれた東方的な新イデオロギーは、ビザンツ帝国の新しい考え方となって、その結果かつての帝国政策と距離を置くようになっていきます。
 これは、ビザンツ帝国がローマ帝国復興を最終的に諦めたことを意味します。以後、戦争とは異民族の侵入からキリスト教を守るものであるという考え方が主流となって、ビザンツ帝国は古代ローマ帝国からの最終的な脱皮を果たすこととなり、それまでのローマ的要素をすっかり拭い捨てて、本当の意味でのビザンツ帝国が誕生することとなるのです。

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