われらがビザンツ帝国

第6章(終 章) 帝国の最期
 1453年5月29日、運命の日の戦闘の様子。千年存続の要因とは何かを考える。

INDEX 第5章 | まとめ
36 最後の決戦@(滅亡前夜)
 オスマン=トルコのメフメト2世の奇想天外な作戦に、コンスタンティノープルの陥落が現実のものとなっていきます。
37 最後の決戦A(1453年5月29日、帝国の最期)
 ついに完結。ビザンツ帝国の一千年の歴史に幕が閉じます。


36 最後の決戦@(滅亡前夜)

 アンカラの戦いでバヤジット1世が捕虜となったことによって、オスマン・トルコは解体しました。しかし、ビザンツ帝国はそれに対して何ら有効な措置をとることができませんでした。ビザンツ帝国の力はそこまで地に落ちていたのです。また、頼みにしていた西欧からの援軍もほとんどなく、象徴的なものでしかなかったために、オスマン・トルコを完全に打倒することはできなかったのでした。さらに、1405年にティムールが明朝に対する遠征の途上で病没すると、オスマン・トルコを再び蘇らせる機会を生んでしまったのです。
 こうしてオスマン・トルコは1413年、メフメト1世(在位1413〜21)のもとで再興しました。
 これに対して、同じくオスマン・トルコの脅威にさらされていたハンガリーやポーランドが援軍をよこしたのですが、これも1444年にブルガリアのヴァルナ近くでオスマン・トルコに敗れてしまったのです。そして、しばらくの後に、ビザンツ帝国は再び本格的な攻撃を受けて、ついに滅亡することになります。

 運命の1453年のコンスタンティノープル攻防戦はこうして始まったのです。
 1453年4月5日、メフメト2世はコンスタンティノープルを何が何でも奪い取って、オスマン・トルコの首都に造り変えようという強い決意とともに大城壁の前に陣取りました。彼はこのコンスタンティノープル攻略戦のためにわざわざ特別製の大砲を準備したほどですから、その決意のほどがうかがえる。そしてビザンツ皇帝コンスタンティノス11世(在位1449〜53)に対して、あくまで抵抗するなら占領後全市民を虐殺するか奴隷におとしめるであろうと脅迫したのです。メフメト2世の脅迫は、こけ脅しの強がりを言っているわけではありませんでした。実際、双方の兵力の差はビザンツ軍五千人弱に対してオスマン・トルコ軍六、七万人という圧倒的なものだったからです。これまで一千年間にもわたってあの手この手で切り抜けていった包囲戦と勝手が違っています。もはや賠償金を条件に包囲の解除を求める経済力はとうに失なわれてしまっていますし、兵士のほとんどは一般市民や聖職者などの義勇兵であり、この時とばかりに多額の報酬を要求してくる士気の低い傭兵と手を組まなければならなかったからです。
 しかし、大城壁の堅塁と昔日の面影こそなくしているものの、ビザンツ、ヴェネツィア連合艦隊が容易には突入を許しませんでした。そこで、メフメト2世は4月22日深夜、艦隊の丘越え作戦を展開しました。
 ゴールデン・ホーンの入り口の鉄鎖はまだ健在で、オスマン・トルコの軍艦も侵入することができずにいました。そこで、水牛と人夫の力を頼りに艦隊を陸送し、湾内に進水させて海戦を挑んだのです。この奇想天外な作戦に守備側の士気は落ち、陥落も時間の問題となりました。

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37 最後の決戦A(1453年5月29日、帝国の最期)

 5月27日から開始された総攻撃はすさまじいものでした。

 コンスタンティノス11世は、テオドシウス2世城壁の中央に近いロマノス門に本営を置き陣頭指揮にあたりました。また、市民たちは聖ソフィア大聖堂に詰めかけて奇跡の勝利をひたすら祈ったのです。
 しかし、彼らの祈りも空しく、運命の5月29日はやってきました。
 オスマン・トルコの軍勢が城壁の破孔を突破し、またたく間に市内に侵入してきたのです。コンスタンティノス11世は、それを見届けるとトルコの軍勢の中に突入し、城門近くの乱戦の中で刀を振り回しながら戦死したといわれています。
 こうしてコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅亡したのです。
 メフメト2世は、コンスタンティノープル市民の虐殺と市内の略奪が終わったのをみると、公式の入城を果たし、聖ソフィア大聖堂へ足を運び、二つの象徴的行為を行なってビザンツ帝国の歴史が終わったことを示しました。
 先ず、ビザンツ帝国の栄光の象徴であったこの大聖堂をモスクに変える意思を示したのです。そして、次に彼は大聖堂の祭壇の上に土足で上がってそこを踏みにじり、この建物がただの廃屋となったことを示したのです。
 こうして、コンスタンティノープルはイスタンブルと名前を変えて、オスマン・トルコの首都となりました。イスタンブルは、オスマン・トルコの首都としてさらに発展を続けることとなりますが、これに代わって1922年にムスタファ・ケマルによってトルコ共和国が樹立され、イスタンブルがその首都としての地位をアンカラへと受け渡した現在でも、トルコの領土であることは変わりがありません。1829年のアドリアノープル条約によってギリシアの独立は認められたものの、コンスタンティノープルに関しては、1453年5月29日が永遠にギリシア人のもとへ還ることがない祖国喪失の日でした。

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