われらがビザンツ帝国

第1章(序 章) 帝国の誕生
 ビザンツ帝国という名の国家は実は存在していなかった。ビザンツ帝国誕生にかくされたその理由とは。

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1 「ローマ帝国イデオロギー」の起源
  ビザンツ帝国の存続に貢献することとなった考え方(イデオロギー)について。
2 330年5月11日、帝国の誕生
  ビザンツ帝国誕生の年代は、定かではありません。一体ビザンツ帝国はいつ誕生した国家なのでしょう。
3 ビザンツ帝国の特徴
  ビザンツ帝国はキリスト教を国教とし、専制君主制を採用した国です。
4 なぜコンスタンティヌス帝はローマを捨てたのか
  ローマを捨て、遷都を行なった真意とは。ビザンティウム(コンスタンティノープル)選定のきっかけとは。


 「ローマ帝国イデオロギー」の起源

 世界史上、ビザンツ帝国(330年〜1453年)のように一千年以上も存続した国家は稀です。日本もそのひとつですが、ユーラシア大陸の東のはずれ、さらに島国という地理的な条件がそれを可能にしたといえるのではないでしょうか。すなわち、へき地に位置していたために異民族の侵入が少なかったといえるのです。それに対して、ビザンツ帝国は、ヨーロッパとアジアの中間点に位置していたため、常に東西南北あらゆる方向から異民族の侵入に悩まされ続けていたのです。
 しかし、このように常に帝国の安全をおびやかす異民族と争いながらも、ビザンツ帝国はそれによく耐え、一千年以上も存続しました。また、同時にその点はビザンツ帝国の存続が他の国家のそれよりも奇跡的であるといわれるゆえんです。
 しかし、これから述べることは、ビザンツ帝国が世界史上に奇跡を起こしたということではありません。ビザンツ帝国が存続したことは、確かな根拠をもってなされた偉業であって、我々がよく知っている歴史現象のひとつにほかならないことを証明することこそ、これから述べていくことなのです。
 ビザンツ帝国が、一千年以上も生き残ったことについては、確かに様々な理由があります。しかしながら、生き残れた理由をただひとつだけ挙げるならば、イタリア(ローマ)と全く関係のない東方のギリシア人国家だったにも関わらず、自らをローマ帝国のローマ人であると名乗り続けたことといえるでしょう。それによって、ビザンツ人の心の中には「ローマの伝統」を守り受け継いでいかなければならないという理念が生まれました。ここでは、その理念を「ローマ帝国イデオロギー」と定義しておきましょう。そして、このようなイデオロギーが帝国の存続を可能にしたといえるのです。
 確かに、ローマ帝国は古代最強の国家でした。彼らが、その末裔としてのプライドをもっていたとするならば、その誇りにかけて「絶対に滅ぼされてなるものか」という気持ちがあった考えるのは自然だといえます。ビザンツ帝国の支配者は、それら民衆の中にあったイデオロギーを帝国の存続に利用したのです。
 では、このイデオロギーを一千年以上にもわたって存続させることができたのはなぜでしょうか。実は、その背景には、物理的な最大の防衛手段であった首都コンスタンティノープルにそびえ立つ大城壁の存在があります。
 この城壁はコンスタンティノープルを囲むようにあり、その堅固さは当時世界一だったといえるでしょう。しかし、この城壁が異民族の手によって破られれば全てがおしまいです。そうなった後にいくらローマ帝国理念をうたっても意味がありません。大城壁こそが国民の生命であり、存在のあかしだったのです。
 このように、ローマ帝国理念がビザンツ帝国を存続させる原動力だったならば、以上の理由から、今後、大城壁に挑んできた様々な異民族とのつきあい方、すなわち彼らの侵入による滅亡の危機をいかにして乗り越えることができたのかという点を特に重要視して考えなければなりません。
 ビザンツ帝国は、しばしば、誕生から滅亡まで異民族の侵入による滅亡の危機がありました。時には攻め手側になったこともありましたが、全体としては守りになることの方が多かったのです。つまり、ビザンツ帝国は、異民族の侵入と撃退を繰り返した歴史といえるでしょう。これから、とりわけビザンツ帝国の存在自体をおびやかす存在となった特定の異民族をいくつか取り上げるつもりです。そして、彼らをビザンツ人たちはどのようにして退けたのかを中心として述べていこうと考えます。        

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 330年5月11日、帝国の誕生

 ビザンツ帝国誕生の年代は、定かではありません。ディオクレティアヌス帝(在位284〜305)が専制君主制というビザンツ帝国特有の政治制度を初めて行なったことを理由に、彼が即位した年(284)にする説。ローマ帝国の地方都市のひとつに過ぎなかったビザンティウムが、首都コンスタンティノープルとしてスタートした年(330)とする説。また、教科書に従えば、ローマ帝国の東帝国と西帝国への分離の年(395)が誕生の年代だったりします。しかし、そもそもビザンツ帝国という名前の国家は、実はどこにも存在しなかったのです。存在したのはローマ帝国であって、1453年にオスマン・トルコによって滅ぼされた国家もあくまでローマ帝国なのです。ビザンツ帝国とは、中世に生き残り続けたローマ帝国の名称であって、首都コンスタンティノープルの旧名ビザンティオンにちなんで名付けられた近代の名称なのです。そういった意味ではビザンツ帝国はローマ帝国と同じ国家といえます。すると、その誕生はローマ都市建設の時代までさかのぼらなければならないかもしれません。
 伝説によると、ローマ人の祖先はトロイの貴族アエネアスと呼ばれる人物で、その子孫であるロムルスが前8世紀にローマを建設したとされています。
 こういった諸説があるなかで、ビザンツ帝国のはじまりを特定するのは難しいといえます。しかし私は、330年5月11日のコンスタンティノープル開都式をもってその誕生とする説に従いたいと思います。
 次回、その理由をローマ帝国とビザンツ帝国の相違点を挙げ、それらを比較することによって明らかにしたいと思います。

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 ビザンツ帝国の特徴

@ 政治体制
 ローマ帝国はもともと、元老院を最高機関とする共和政でした。前27年にオクタヴィアヌスが帝政を開始しますが、彼は外面的には共和政を尊重し、君主や王の称号を用いませんでした。彼は、代わりに「第一の市民」という称号を好んで用いたとされています。これを「元首政」といいます。しかし、3世紀に入って、先に述べたディオクレティアヌス帝が、皇帝権力を強化し、ビザンツ帝国の特徴的な政治体制である専制君主政(ドミナートゥス)を始めました。
A キリスト教
 政治体制という点においてローマ帝国末期には、伝統的な共和政ないしは元首政が、ディオクレティアヌス帝によって、専制君主政のようなビザンツ的な要素を持つ体制へと変化していったのは事実です。しかし、彼の時代をビザンツ帝国と呼ぶにはまだ不充分な点がいくつかあります。そのひとつはキリスト教の公認問題です。彼は皇帝に服従しないキリスト教を迫害したことで有名ですが、ビザンツ帝国はキリスト教国家なのです。そういった点では、ディオクレティアヌス帝の時代は、まだビザンツ帝国と呼ぶには不充分といえます。
B 首都
 ディオクレティアヌス帝がキリスト教を迫害したのに対して、彼に続いたコンスタンティヌス帝(在位 副帝306〜310、正帝310〜337)は、キリスト教を313年の「ミラノ勅令」において公認すると、さらには330年にビザンティオンへ首都をうつしました。そもそも、ビザンツ帝国という名前から考えてみても、ローマ帝国とビザンツ帝国の相違点の最たるものは、首都の所在地にあるといえます。

 コンスタンティヌス帝が首都をうつしたことは、すでになされていたビザンツ的な政治体制である「専制君主政の成立」および「キリスト教の公認」と加えて、ビザンツ帝国の三つの重要な要素が初めて満たされた瞬間でした。よって、これをもってビザンツ帝国のはじまりとすることができるのです。

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 なぜ、コンスタンティヌス帝はローマを捨てたのか

 では、コンスタンティヌス帝は、なぜローマを捨て、ビザンティオンに首都をうつしたのでしょうか。
 実は、彼は青年時代に中近東、小アジアを任地とする軍務の経験がありました。その時に、迫害下のキリスト教徒が兵士として有能なばかりか、人間として誠実で有能な市民となり得る人々であることを見抜いていたのです。またディオクレティアヌス帝も小アジアのニコメディアへ首都をうつそうと考えていたことからもわかるように、3世紀以来権力を強めていったローマ皇帝らは、西方(特にイタリア)の退廃ぶりに比べて、東方が最も帝国内で活気に満ちた地域であることに目をつけるようになっていました。そのため、コンスタンティヌス帝も東方へひきつけられるようになっていたのです。
 また、首都をビザンティオンにしたきっかけには、コンスタンティヌスがローマ帝国全土の支配者となるべく、当時ローマ帝国の東側を支配していたリキニウス軍を追って、324年にビザンティオンを攻撃したことが挙げられます。この後リキニウスは降伏し、コンスタンティヌスが名実ともに全ローマ帝国の支配者となるのですが、彼はこのビザンティオン攻防戦において、この都市の地理的重要性および軍事的利点を知ったようです。つまり、ビザンティオンはアジアとヨーロッパの境界という重要地に位置しているうえに、港に最適なゴールデン・ホーン(金角湾)と呼ばれる深い入り江を持っていたのです。
 また、彼はローマ帝国を支配するにあたって、先帝であるディオクレティアヌス帝の政策をそのまま受け継ぎました。しかし、彼と違って、コンスタンティヌス帝は統治の宗教的基盤にはキリスト教を選び、教会を援助したのです。よって、リキニウス戦以後急速にキリスト教の魅力にひかれていった彼が、今では名目上の首都でしかなく、かつ伝統宗教の残るローマを捨て、キリスト教が興った地に近い東方のどこかにキリスト教的な新都を建設しようとするのは当然の成り行きといえるのです。
 また、彼は、このリキニウス戦に勝利した記念に新都を建設したといわれていますが、このように当時の皇帝たちは自分の名を歴史に残すために積極的に都市建設を行なっっていました。また、ローマ帝国の首都がローマを離れ、あちこちを転々としていました。しかし、コンスタンティヌスが建設したこの都市は、その後1453年まではビザンツ帝国の首都として、それ以降は、イスタンブールと名前を変えオスマン・トルコ帝国の首都として末永く栄えこととなりました。    

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