生没年 |
1547?〜1583.06.14 |
関係人物 |
父 |
織田信秀 |
母 |
不明(正室の土田御前とも) |
夫 |
浅井長政(北近江の大名)のちに柴田勝家 |
兄 |
織田信長 |
子 |
万福丸(父浅井長政が信長に敗れたため、殺される)
万寿丸(出家させられる)
茶々(後の淀君、豊臣秀吉側室)
初(京極高次正室)
江(徳川秀忠正室、江戸幕府三代将軍家光の生母) |
名 前 |
お市の方 小谷の方 |
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生涯 |
父は、尾張国の大名、織田信秀です。織田信長の妹にあたります。
生母は、信秀の正室、土山御前との説もありますが、側室の子ともいわれています。
後に、北近江の大名、浅井長政と結婚しました。
政略結婚でしたが、夫婦の仲は睦まじく、周りがうらやむほどだったといわれています。
長政との間には、5人の子をもうけました。
しかし、長政は越前の朝倉義景らと謀り、織田家との同盟を破ってしまいました。
そして、織田信長と争うようになりましたが、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が織田軍に敗れた後、浅井氏の居城の小谷城を攻められ、夫の長政は自害しました。
子供らとともに小谷城を出て、織田家に引き取られますが、男子だった万福丸は殺され、万寿丸は出家させられました。しかし、三人の娘たちはいわゆる「浅井三姉妹」として、それぞれ波乱の人生を歩むことになります。末娘のお江は、徳川秀忠の正室となり、江戸幕府三代将軍の家光を生みましたので、浅井家の血筋はその後も栄達をきわめることになりました。
天正10年(1582)の本能寺の変で兄の信長が討たれた後は、信長の家老だった柴田勝家に嫁いで、越前北ノ庄に行きますが、その翌年、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と対立した勝家が敗れ、居城の北ノ庄城は陥落、勝家とともに自害しました。
お市の方は戦国一の美女といわれていました。
秀吉は熱烈に好意を持っていたとされ、小谷城陥落の際にもお市の方を救出するのに活躍しました。その功績もあり、秀吉は浅井家の旧領、北近江に所領を得ることになりました。
秀吉は、北ノ庄城の陥落の際にも救出しようとしましたが、叶いませんでした。
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辞世の句 「さらぬだに 打ぬる程を 夏の夜の 別れをさそふ ほととぎすかな」 |