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長崎県の歴史シリーズ

原城跡
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所在地
長崎県南島原市南有馬町浦田名
国道251号線がはしっています。長崎自動車道、諫早インターが最寄り。熊本方面からは、鬼池・長洲・三角などからのフェリーも便利。
歴 史
明応5年、有馬氏当主、有馬貴純によって築かれました。後に慶長19年、松倉重政が有馬氏に代わってこの地に入りますが、松倉氏は島原城を築いて原城を廃城としました。しかし、1637年、松倉氏の圧政に耐えかねた付近の農民が天草四郎を総大将に篭城。鎮圧軍を苦しめましたが、ついに落城、2万7千(3万7千?)もの一揆軍は非戦闘員も含めてすべて殺害されました。
付近の歴史スポット
島原武家屋敷 島原城の城下町、鉄砲町と呼ばれていました
島原城 五層の天守閣の他に三重櫓が3つ存在するお城
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原城 城壁跡 天草四郎像 空濠
原城は明応5年(1496)、領主有馬貴純が築城したものです。有明海を航行する船は原城に美しさに見とれ、つい時の経つのも忘れて日暮れまで見入ってしまうというので、別名「日暮城」と呼ばれていました。元和2年(1616)に、松倉重政がこの地を治めるようになりましたが、一国一城令により島原城を居城とし、その建築に原城から多くの資材を運んだため、廃城となってしまいました。
松倉重政は島原城を築城するにあたり、多くの石材を原城から運びましたが、ここに写っているのは取り残された築城当時の遺構です。こうして、原城は朽ちていくのですが、1637年、松倉氏の過酷な支配とキリシタン弾圧に対して、農民が蜂起し、ついに島原の乱(島原・天草一揆)が起こりました。その時、一揆軍が立てこもった場所として、再び歴史に登場することになります。そして、はからずも悲劇の舞台になってしまうのです。
本丸には、天草四郎像があります。14年(1637)10月25日、この天草四郎時貞を盟主に反乱が起こりました。本名を益田時貞といい、関ヶ原の戦い(1600)に敗れて処刑された小西行長の家臣、益田好次の子といわれています。この時まだ、16歳でした。こうして、約3万7千人(2万7千人とも)の一揆軍が原城に終結しました。初めは、幕府から派遣された鎮圧軍に対して善戦し、幕府側も多くの死傷者が出ました。戦いは、長期戦の様相を呈してきましたので、鎮圧軍は兵糧攻めに切り換え、一揆軍を追い込む作戦をとりました。
ここは、空濠(からぼり)といい、一揆軍が防衛のために構築したくぼみです。籠城の時はこの上をカヤでおおい、非戦闘員を収容していたところでした。食料がそこをついてきた一揆軍は、1638年2月21日、約4千人が食料奪取を目的に空濠に集結し、夜襲を試みました。しかし、失敗に終わりました。
大手門跡 虎口跡 本丸跡 天草四郎の墓
ここには、原城の表玄関、大手門がありました。よって、一揆軍も有馬藍物や大江源衛門らの指揮のもと3千5百名もの農民が死守していました。しかし、2月28日の総攻撃の時、細川軍がこれを破り、一揆軍を全滅しました。大手門が破られた原城は、その日のうちに落城することになります。
遠くには、雲仙普賢岳が見えます。虎口とは、本丸の入口にあたるところを指します。ここは、本丸侵入に対する最後の防衛線でしたが、抵抗も空しく終わった最後の戦闘があった辺りです。発掘調査により、門柱の礎石や玉砂利、大量の瓦などが出土しました。ここには本丸正面の門として、瓦葺の立派な門があったと考えられます。一揆の後、徹底的に破壊されたものと考えられていますが、壊して地中に埋める時、周りにあった一揆軍の遺体も一緒に埋め込んだと思われ、石の下からは多くの人骨が出土します。
2月28日、本丸まで侵入を許した一揆軍は全滅しました。こうして、88日間にも渡った籠城は終わりました。現在、本丸跡には十字架が建てられています。

痛ましき 原の古城に来て見れば

 
ひともと咲けり 白百合の花
          新村 出


新村 出(しんむら・いずる)1876-1967 言語学者、国語学者。広辞苑の編者でも有名。
本丸のかたわらには、天草四郎の墓がありました。天草四郎自身も、2月28日の戦闘で敗死しました。
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