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お城シリーズ

二条城
| 後
所 在 地 京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
城の種別 輪郭式平城
別  名 元離宮二条城
築 城 者 徳川家康
歴代城主  
築 城 年 慶長8年(1603)
交  通 JR京都駅から市バス、または地下鉄烏丸線烏丸御池駅乗り換え、東西線二条城前駅下車
そ の 他  
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歴史年表
 
 

 

西 暦 元 号 出来事
1601 慶長6年 徳川家康が常楽寺の宿所として築城をはじめる。
1603 慶長8年 3月 落成
1611 慶長16年 二条城会見(家康と豊臣秀頼との会見)が行われる
1750 寛延3年 落雷によって天守が焼失
1871 明治4年 二の丸御殿が京都府庁舎となる
1884 明治17年 二条離宮となる
1939 昭和14年 所管が京都市となり「元離宮二条城」となる
天守閣
天守台のみ残る
 

 
内堀にかかる西橋の上からの天守台の眺めです。天守閣が現存していたらさぞ立派な眺めだったことと思います。打ち込みハギ積みで、熊本城や名古屋城と同じく、反りが見られます。ここに立っていた天守閣は伏見城の天守閣を移築したものといわれています。
城内案内
二の丸御殿
 

単に「二の丸御殿」といっても、その建物は大変大きく、建物面積3300平方メートル、部屋数33、800畳敷きという立派なものです。写真は、入口にあたる「車寄せ」とよばれている部分で、奥には、「遠侍(とおさむらい)」、「式台」、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」、「白書院」の6棟が連なっています。内部は狩野派の人たちによる豪華絢爛は襖絵などで飾られており、桃山文化の粋をうかがえます。内部の廊下は有名な「うぐいす張り」になっており、歩くと「キュッキュッ」と音がします。

南側外堀 東南隅櫓 東大手門
永禄12年(1569)に旧二条城の築城が開始されたという記録がありますが、本格的に城郭が整えられたのは慶長8年(1603)のことです。築城したのは徳川家康で、京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所として築かれました。写真は、地下鉄東西線二条城駅入口に近い、東南角から南側の外堀を望んだものです。
東南隅櫓。もともと防御のために造られたお城ではなく、全国のお城に見られるような建物は少ないのですが、この東南隅櫓はその中でも数少ない城郭建築のひとつといえそうです。寛永年間の建築で、四方にあった隅櫓のうち、天明の大火での焼失を免れた櫓のひとつです。国指定重要文化財。 両端の石垣の上から渡り廊下を設け、その下を門とした櫓門形式の建物です。本瓦葺入母屋造り。現在の二条城のメインゲートとなっています。この門の外側右手に券売機があり、そこで入城料600円(大人)を支払って入ります。閉館は午後5時と割と早めです。国指定重要文化財。
番所 築地塀 南門
正面十間、奥行き三間。将軍が不在の時に城の管理をするために江戸から派遣された大番組の武士たちのことを二条在番と呼んでいました。二組(一組五十人)が、毎年四月に交替し、城内の警備にあたりました。この番所は、そうした武士たちの詰所のひとつとしてあった建物です。現存する数少ない門番所の遺構のひとつです。東大手門をくぐったすぐ右手にあります。 築地塀といいますが、俗に「筋塀」ともいいます。柱を立て、板を芯として泥で塗ってあります。元は、泥をつき固めた土手のようなものだったということです。塀にある横線は、定規筋といい、御所や門跡寺院の塀など格式の高い塀につけられた模様で、中でも二条城にあるような五線は最上の格式とされています。 大正4年(1915)11月10日の大正天皇の「御大典」に合わせて新たにつくられました。「御大典」とは、天皇の即位儀礼のことで、「即位式」と「大嘗祭(だいじょうさい)」が行われます。この門の外側には現在橋がなく、くぐっても堀にさえぎられています。
唐門 二の丸御殿大広間 釣鐘
切妻造、檜皮葺の四脚門で門の上には唐破風があります。この門をくぐったところに、国宝の二の丸御殿があります。
大広間の部分を外側から撮影したものです(内部は撮影禁止)。四の間までありますが、一の間と二の間はそれぞれ48畳、44畳あり、非常に広い部屋となっています。この部屋で慶応3年(1867)10月、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を発表しました。 この釣鐘は幕末の政変の時期、二条城と北側にあった所司代との連絡に使われたものだそうです。薩長軍と旧幕府軍との戦闘である鳥羽伏見の戦いの開戦にも使用されました。

二の丸庭園
蘇鉄の養生
桃山門
洛中洛外図屏風などの記録や作風から、慶長7年(1602)ころ、二条城の築城当初からこの庭園が存在したものと考えられています。その後、寛永3年(1626)の御水尾天皇行幸のために一部改修されました。三つの島と四つの橋を設けた池を中心とした庭で、この二の丸庭園はまたの名を「八陣の庭」と呼んでいます。国指定特別名勝。 8代将軍の吉宗の時代に蘇鉄(ソテツ)が15本植えられました。蘇鉄は寒さに弱い南方系の植物なので、毎年11月末から12月初めに「こも」や「わら」を巻いて冬備えをします。二の丸庭園の冬の風物詩となっています。 武家屋敷の門によく使用されている長屋門形式の門です。くぐった先は桜の園とよばれているところで、サトザクラが植樹されています。写真右の土塀の向こう側には本丸と二の丸を隔てる内堀があります。
鳴子門
東橋
櫓門から内側
内堀の東側を南北に通っている道のうち、南端に「桃山門」、北端にこの「鳴子門」があります。ともに国指定重要文化財。門の奥に見えるのは桃山門。 二の丸と本丸をつなぐ内堀に架かっている橋です。昭和初期までは二階建ての渡り廊下が存在していました。この橋を渡るといよいよ本丸に入っていきます。 東橋を渡った先にある櫓門付近から。両側に石垣が見られ、その先は桝形になっています。全国のお城によく見られる造りです。本丸御殿の建物の一部が見えます。
本丸からの櫓門 本丸御殿(御常御殿) 塀重門
本丸はほぼ正方形をしており、西南隅に天守台があります。この東橋を渡り櫓門をくぐったところは小さな桝形になっています。この先に本丸御殿があります。 本丸御殿は、京都御所内にあった桂宮の旧邸です。そこには、当時、公武合体の政略結婚で14代将軍徳川家茂に嫁いだ皇女和宮が住んでいました。 天明8年(1788)に焼失してしまいましたが、幕末に十五代将軍、徳川慶喜の居館として再建されました。しかし、これも明治14年(1881)に解体、撤去されました。現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治27年(1894)に移築したものです。国指定重要文化財。平時は公開されていません 屋根や冠木がなく、門柱と扉だけの簡素な門を「塀重門」といいます。この二条城の塀重門は本丸の庭園から御殿の玄関へと向かう途中にあります。
本丸御殿(玄関) 西橋 土蔵(米蔵)
本丸御殿の入口にあたる建物です。しかし、割と奥ばったところにあります。玄関にしてはひっそりとした感じがしました。 東橋と同じ内堀に架かる橋です。東橋と比べ、入口(東大手門)から遠いため人の出入りがあまりなくひっそりとしています。しかし、この付近は天守閣からも近いためか、壮観な石垣が見られます。 二条城に残る土蔵(米蔵)です。これも国指定重要文化財。
二条城の石垣 西門へ 北中仕切門
現在の二条城築城以前に、織田信長によって永禄12年(1569)にわずか70日間で完成した旧二条城があったとされています。工期が短かったため、資材の調達に近郷の石仏、板碑、燈籠などを徴収して石垣に転用したと伝えられています。この遺構にもその石仏などがみられます。この石垣は京都市営地下鉄烏丸線の工事の際に烏丸下立売から発見されたものです。 ひっそりとしており、現在は通行できません。天守閣からも近いため、厳重なつくりになっていたようです。埋門形式になっています。 二の丸の北にある仕切門です。こちらも埋門形式になっています。
加茂七石 清流園 北大手門
古来より、京都では「加茂七石」という七種類の石が珍重されてきました。主に、庭石などに用いられています。奥側から、ふぐろ石、紫貴船石、紅加茂石、糸掛石、畑石、鞍馬石、八瀬真黒石と名付けられています。いずれも京都やその近郊の地名がつけられており、その産地がわかります。 二条城北部にあたります。創建時は天守閣があったところとされていますが、その後、その天守閣が淀城に移築されてからは、空き地を経て同心の住まいがあったということです。しかし、大正4年(1915)の大正天皇即位式の時に、饗宴の儀の会場となり、その後、造園家小川治兵衛によって、疎林式庭園が造られました。戦後、進駐軍のテニスコートがあったそうですが、昭和40年(1965)に和洋折衷の池泉回遊式庭園になり、現在に至っています。 現在のメインゲートである東大手門と匹敵する大きさを誇っています。現在は通常、門は閉ざされており、人の出入りはできません。
0327小倉城 0329会津若松城
(C)社会科ちゃん