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お城シリーズ

郡上八幡城
所 在 地 岐阜県郡上市八幡町柳町一の平659
城の種別 山城
別  名 積翠城
築 城 者 遠藤盛数
歴代城主 遠藤氏 → 稲葉氏 → 遠藤氏 → 井上氏 → 金森氏 → 青山氏
築 城 年 永禄2年(1559)
交  通 長良川鉄道「郡上八幡駅」下車。
コメント 遠藤盛数築城のお城。木造再建城としては最も古い天守閣です。
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郡上八幡日和 「郡上八幡城」 城下町郡上八幡のシンボル
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歴史年表
西 暦 元 号 出来事
1559 永禄2年 遠藤盛数が八幡山に城を築く。(郡上八幡城のおこり)
1588 天正16年 遠藤盛数の子、慶隆が岐阜城主織田信孝に通じていたので、豊臣秀吉に疎まれて加茂郡小原犬地に領地替えとなり、代わりに稲葉一鉄の子、貞通が入封。4万石。
1600 慶長5年 城主稲葉貞通と遠藤慶隆との間で攻城戦がおこる。その後、慶隆は関ヶ原の戦いに遊軍として参加。11月には2万7千石で再び郡上八幡城主となる。
1692 元禄5年 稲葉氏5代目城主、常久が7歳で死亡。代わって、11月に井上中務少輔正任が5万石で入城。
1697 元禄10年 井上氏2代目城主、正岑が丹波国亀山に移され、代わりに羽州上の山から金森氏が3万8千石で城主となる。
1754 宝暦4年 年貢増徴などの政策に反発した領内の農民が蜂起するいわゆる宝暦騒動が起き、その責任を問われて金森家が断絶となり、丹波国宮津の青山大和守大膳亮幸道が城主となる。
その後、7代111年続き、明治維新を迎える。
1933 昭和8年 八幡山天主台跡に、天守閣、隅櫓、高塀を再建。
天守閣
木造4層5階
昭和8年(1933)再建
建面積118.98u(35.99坪)、延面積309.11u(93.50坪)、高さ、17.18m。
山内一豊とその妻、千代の銅像です。諸説ありますが、この郡上八幡は千代の故郷といわれている場所のひとつです。この銅像は、千代が化粧料として大切にしていたお金で一豊に馬を買ったという有名なエピソードの場面をあらわしています。 昭和30年(1955)8月30日、天守閣周辺の石垣の遺構が岐阜県の指定史跡になりました。
この一帯は駐車場として利用されるまで、杉や雑木の生い茂った湿地帯で案内板の立っているこの付近に一基の浅井戸が潰されていました。この井戸は「首洗いの井戸」と言い継がれ、慶長の合戦に際して討ち取られた武士の首についた血や泥を、首実検のために洗い清めるために使用されたそうです。
この二つの石は、寛文7年(1667)に城主、遠藤常友が城を修理するため領内から多数の人夫を集めた時、その中の一人である大和町の作兵衛(通称、赤髭)が城下の河原から背負ってこの地まで運び上げたものといわれています。奉行の村上貞右衛門がその力量の優れているのを見て、賞賛すると、彼は感涙してたちまち力尽きてその場で卒倒して息絶えてしまいました。昭和8年(1933)に天守閣を再建した際に、草むらの中からこの石が発見され、碑として安置されることになりました。
明治維新の改革により城が壊された代償として、海岸産(三河方面)の黒松が多く植えられたといわれています。この松は樹高が20m以上あったといわれていますが、平成7年(1995)に落雷によって枯れてしまいました。お城や売店に落雷することなく、身代わりとして落雷を受けたということで、「お助けの松」ということです。 つけ櫓。天守閣とともに再建されました。 凌霜隊についての碑文がありました。凌霜隊は、戊辰戦争の時、江戸に在番していた郡上藩士45名で結成された組織で、徳川家の恩顧に報いるため、会津若松での戦いの救済を決意しました。凌霜隊は、弱冠17歳の朝比奈茂吉を隊長に脱藩して旧幕府軍と合流するため会津を目指しました。 凌霜隊は、会津へ向かう途中、激しい戦闘を繰り返しましたが、会津へ到着し、あの白虎隊とともに西出丸を守りました。戦闘に負けた後は、降伏して郡上へ戻されることになりました。しかし、江戸から乗り込んだ船が難破するなど不幸に見舞われました。郡上へ帰還した後も、藩では脱走者として謹慎を命じられ、収監されました。明治3年にようやく謹慎を許されましたが、結局、戦死者や行方不明者を除き35名になっていました。
0319熊本城 0321掛川城
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