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0316富山城

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【富山城天守閣】

模擬天守で、本丸虎口近くの石垣の上に建てられています。
当時は、神通川の流れをたくみに利用した縄張りで、
浮城ともよばれていました。
現在の天守閣は富山の郷土博物館に利用されています。
富 山 城
所 在 地 富山県富山市本丸
城の種別 平城
別  名 浮城 ・ 安城 ・ 安住城
築 城 者 水越勝重(神保長職)
同一人物か主従関係かは諸説あり
歴代城主 水越氏 → 神保氏 → 上杉氏 → 佐々氏 → 前田氏
築 城 年 天文元年(1532)
天 守 閣 鉄筋コンクリート3層3階
交  通 JR富山駅下車
富山地鉄(路面電車)丸の内駅または県庁前駅
そ の 他 神通川に浮いているような城郭だったため、浮城という別名が付けられていました。

さらさら越え

 富山城にいた佐々成政は、成り上がり者の秀吉が嫌いでした。そんな折、徳川家康が、信長の次男(織田信雄)を担いで秀吉と戦いを始めたのです。世にいう、小牧・長久手の戦いです。家康に呼応した成政でしたが、この戦いは秀吉と信雄の和睦という形で決着がついてしまいました。こうして秀吉に敵対し続けているのは成政だけとなりました。成政がいる富山の東には上杉景勝、西には前田利家がおり、挟み撃ちにあっている状況にあります。幸い冬で雪に閉ざされており、前田も上杉も兵を動かすことができませんが、春を迎え、雪解けの季節になればやられてしまうと考えた成政は、両家の所領を避け、冬の立山連峰を越えて(さらさら越え)浜松にいる家康に再度の挙兵を促しにいくことを決意したのです。訓練を積んだ現在の登山家でも冬の立山連峰を越えることは困難といわれます。にもかかわらず、果敢に挑戦した成政はある意味すごいといえます。しかし、せっかく苦労してたどり着いた浜松でも、家康の心を動かすことはできませんでした。こうして、ついに成政も秀吉に屈します。後に、肥後一国を与えられますが、肥後は元々一揆が多発していた地域でした。領内で一揆が起きたことを責められ、成政は秀吉に切腹を命じられたのでした。
もっと詳しく→富山城

歴史年表
1532年

(天文元年)水越勝重(神保長職)が築城。

1576年

(天正4年)上杉謙信が神保氏を破り、支配下とする。家臣の小笠原長隆・上杉信定を置く。

1581年

(天正9年)織田信長の家臣、佐々成政が54万石で入封。

1640年 (寛永17年)前田利次が本家(加賀前田家)より分家して入封。越中前田家がはじまる。
1954年 (昭和29年)天守閣再建。

本丸近くの堀 天守閣
天守閣
鉄筋コンクリート造り3層3階
昭和29年(1954)完成
模擬天守
 富山城に天守閣があったかは不明ですが、一説によると5層の天守が存在していた時期があったとのことです。(江戸時代に作成された古図には天守の記録はない)
 現在の天守は富山の郷土博物館として利用されています。本丸の虎口付近の石垣の上に復興されています。尚、犬山城の天守閣をもとにしたデザインだそうですが、確かに最上階が望楼型になっている点などは似ていると思います。


新旧比較図


現在は美術館として利用されている櫓風の建物
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